聖書の正しい解釈法~ルカ伝を通して~
はじめに
思想を理解するためには,確認すべき三つの事柄があります。第一に,人物です。抽象的思想の背後には,必ず,生きた具体的人間がいることを忘れてはなりません。第二に,マクロ的観点である世界観です。いくら思想の細部を研究しても,その全体像を把握しなければ意味がありません。第三に,ミクロ的観点である言語観です。その人物が用いた言葉の意味連関組織です。これら三つを総合して,初めて,思想の本質が浮かび上がるのです。
ルカとは誰か?
ギリシャ的教養人
福音書記者ルカとは,一体どんな人物だったのでしょうか?ルカについて分かっていることは二点あります。第一に,相当な教養人であったこと。ルカは,ギリシャ教育を徹底的に受けた医師かつ書記でした。察するに,当時のあらゆる学問に精通していたことと思われます。それは,彼が用いた言語によって推測できます。例えば,「中風の者」という意味のπαραλελυμενου(パラレルメノウ)は,ヒポクラテスが用いた医学の専門用語です。「論じ合う」という意味のδιαλαλεω(ディアラレオー)は,悲劇作家エウリピデスの文学に登場する言葉です。「下航した」という意味のκατεπλευσιν(カテプレウジン)は,完全な航海用語です。また,「直ちに」と訳されるπαραχρημα(パラクレーマ)は,当時既に使われていなかった古語です。このように,高度な教養人であったからこそ,ボキャブラリーが豊富だったのでしょう。
大使徒の弟子
第二に,ルカは使徒パウロの忠実な弟子でした。その証左に,パウロが好んだ表現を,ルカも福音書の中で多用しています。例えば,「福音を伝える」という意味のευαγγελιζειν(ユーアンゲリゼイン)。あまり見かけない表現ですが,パウロ文書とルカ文書にのみ,よく登場します。また,ルカ第二の著作である使徒行伝は,パウロ伝と称することもできます。ルカにとってパウロは,イエスの福音を継承する存在だったのです。
ルカ伝の全体像
ギリシャ文学の影響
聖書人物はたいていイスラエル人ですが,ルカはギリシャ人です。哲学や文学など徹底したギリシャ式教育を受けたルカは,福音書を記述する際,ギリシャ悲劇を模範にしました(アリストテレス「詩学」)。最初に序論があり,最後に終論があります。本論は,ギリシャ悲劇のように,第一幕と第二幕に分かれています。こうした著述形式のみならず,著述の内容もギリシャ悲劇に似ています。なぜなら,悲劇文学の特徴である「逆転・認知・カタルシス(魂の浄化)」を明確に打ち出しているからです。
物語の方向性
ルカ伝には,他の福音書にはない特徴があります。それは,「明確な時間的・空間的方向性がある」という事実です。ルカ伝の時間軸は,イエスの回心(洗礼)から始まり,悔い改めの完成(ゲッセマネの祈り)で終わります。ルカ伝の空間軸は,イエスの故郷ガリラヤからイスラエルの中心エルサレムに向かいます。こうした時空的方向性を前提にして読む時,長年議論されてきたルカ伝の疑問が氷解します。
神学的に有名な「ルカの大割落」。多くの神学者は,ルカがなぜガラテヤを越えた地域(ガリラヤの対岸・デカポリス・ツロ・シドン)におけるイエスの宣教を削除したのか,長年理解できませんでした。しかし,理由は簡単です。ルカにとってイエスの任務は,ガリラヤからエルサレムに至ることであって,異邦伝道は使徒の任務だったからです。それが事実かどうかはともかく,少なくともルカはそういう救済史観を抱いていました。
また,ルカ伝にはこのような記述があります。
「イエスが引き上げられる日々が満了した時,イエスはエルサレムに行くことを決意した」(9-51)
ルカは,何度も何度も,エルサレムにおいてすべてが成就することを説いています。何が成就するのでしょうか?
「御心のままになさって下さい」(22-42)
それは,神への完全な従順です。ルカは,イエスのように神の御心を完全に受け入れる時,人間は人格的に完成すると訴えているのです。
意味論的研究
第二次言語
言葉には,何層もの階層があります。まずは,最も日常的に用いられる第二次言語です。これらの言語は,たいてい両義的です。つまり,前後の文脈や用いられる状況により,意味が変化するのです。ルカの場合であれば,「義人」と訳されるδικαιος(ディカイオス)や「罪人」と訳されるαμαρτωρος(ハマルトーロス)などが該当するでしょう。これらの語は,文脈により,良い意味にも悪い意味にも用いられます。
なお,ルカ伝には,顕現・天国・天使・聖霊など,霊的言語が多いことを付記しておきます。もしかしたら,ルカ自身が,何か霊的な能力に目覚めていたか,もしくは,霊的な現象に興味を持っていたのかもしれません。
第一次言語
第一次言語とは,第二次言語の土台であり,言語連関組織の支柱となる言葉です。この第一次言語は,話者にとって非常に重要な言葉といえるでしょう。ルカの場合,「信仰」と訳されるπιστις(ピスティス)が,代表的な第一次言語です。ルカ伝のイエスが何度も述べる「あなたの信仰があなたを救ったのである」は,ルカ特愛の言葉をイエスの口にのせたと解釈すべきでしょう。
また,「祈る」と訳されるπροσευχεσθαι(プロセウケスタイ)は,ルカ伝に多く登場します。実際,この言葉の出現頻度は,マルコ伝が2回,マタイ伝が2回,ヨハネ伝が1回,ルカ伝が28回です。「ルカ伝のイエスはよく祈る」と評される所以です。確かに,ルカ伝のイエスは,よく一人で祈ります。ルカにとって祈りとは,神への従順に至る必須の行為だったのです。
根源語
根源語とは,すべての言葉を定義する土台であり,言語連関組織における中心です。その人の思想は,根源語から始まり,根源語に帰っていきます。では,ルカ伝における根源語とは何でしょうか?それは「悔い改め」と訳されるμετανοια(メタノイア)です。「罪の赦しに至る悔い改め」この言葉こそ,ルカにおける福音の本質であり,ルカ伝全体のメインテーマです。
何よりも,イエス自身が悔い改めました(イエスの洗礼)。そして,ゲッセマネの園において悔い改めを完成した。ちなみに,悔い改めの完成とは,神への完全な従順です。故に,ルカ伝の本質的メッセージは,「すべての人よ,イエスと同じように悔い改めよ。そして,己を神に引き渡し,罪人から義人になれ」です。ルカ伝の最後が,「この人は本当に義人だった」という軍人の独白で終わる所以です。
おわりに
キリスト教神学の課題
近現代から始まった聖書研究の大きな流れを高等批評と呼びます。これは,聖書の文書や文字を分解し,徹底的に解析する手法です。ディベリウスから始まり,ブルトマンを経過し,コンツェルマンに至る様式史研究は,まさに高等批評の代表例といえるでしょう(日本においては,田川建三氏が該当します)。しかし,この手法には欠点があります。それは,研究対象(福音書や書簡)の全体像を見失うことです。高等批評は,聖書文書に一貫した根本精神を軽視しますので,必然的に文書そのものの意義が失われ,最後には言葉の断片と化します。いわば聖書の様式史研究は,デカルトから始まった西洋的思考方法(物事を部分に分けて分析する思考様式)の末路なのです。
聖書の精神的解釈
聖書研究の次なる課題は,様式史研究のように言葉を分解するのではなく,言葉の奥にある意味を探ることです。著者の心の内へ内へ沈潜し,意味の深みへ没入。そして,著者の意味連関組織を理解した上で,発せられた言葉を解釈しなければなりません。
我々が為すべきことは,ブルトマンが目指した非神話化ではありません。つまり,現代的視点から聖書を読み,迷信的な内容を削除することではありません。なぜなら,すべての時代・すべての民族には,それぞれの神話(世界観の仮説)が存在するからです。我々が為すべきことは,古代に誕生した福音の本質的意味を理解し,現代的に解釈し直すことです。つまり,非神話化ではなく,再神話化でなければなりません。現代にイエスが復活したならば,彼はどう生きたであろうか?現代にパウロが現れたならば,彼は何を説くだろうか?こうした視点と努力こそ,聖書研究者の義務であると考えます。
「現代人にイエスの福音を説かんとする者は,彼の言葉の本来的意味を吟味して,歴史的な真より洗練して永遠の真にまで仕上げなくてはならぬ。この努力をしてこそ初めて,イエスが我らに語らんとしたその真意を本当につかむことができるのである」(アルベルト・シュヴァイツァー)
以下は参考書籍です。
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