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planktone(s)

StudioMarusan.
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「音日記」六日目。短いけど、小さくて可愛らしい、顕微鏡でプランクトンを覗くような、曲ができたのではないだろうか。
リズム=形がはっきりとする前に、色んな音が浮遊しながら登場・通過していく。何か起きそうだけど、何も起きないかもしれない。

僕が音楽をはじめとする諸々の創作でやろうとしていることを考えてみると、それは思いのほか、至って単純かつ軽薄で、「快」を作ることなのではないかと思われてくるが、さらに僕にとって何が快となるだろうか、と考えてみると、それは「重なり」あるいは「同時性」とでも呼べるものではないか、と感じられる。
僕がいう「重なり」や「同時性」は、例えば音楽においては、すぐに思いつくような、同時に別の楽器を鳴らしたり、ハーモニーを作ったり、DAWの画面上で複数のMIDIやオーディオを再生する、といった操作を単にやるだけでは(必ずしも)達成されえないし、あるいは造形芸術においては、単にいくつかの要素を文字通り「重ねる」だけでは表れてこないし、はたまたアニメーションなどにおいても、いくつかのオブジェクトがそれぞれ「同時」に動いていたりするからといって、表現されているとは限らないような、そんなものだ。
何かが「同時」であること。それは、「同時である」と言われている以上、そこにおいて複数の何かが別々であることを含意しているが、それと同時に、何かが「同時である」と言われうるのは、それらがなんらかのやり方で中継され、繋がっており、ある種のまとまりを形成しているからだ。
離れていると同時に繋がっている。あるいは、すべてのものがそのように浸透し合っている。このようなあり方は、僕が以前のエッセイ(「バッファーと創作」)で書いた、バッファーや、そこにおいて生まれる「リズム」にも通ずる。
おそらく、そのような事態自体は、いつでもどこにでも、ある。そのエッセイで書いたように、「私」はそのように構成されているし、その私はまたそのような事態において、何か(例えば行為)を構成する。(ついでに書いておくと、ドゥルーズ(&ガタリ)が用いる「構成平面」「存立平面」という概念を、僕はこうした見方において捉えている。)
だが、同時に、現実世界(として私たちに把握される領域)は、むしろあまりにも多くのことが同時に起きており、そこでの同時性はホワイトノイズのように捉え難く、またそれだけでなく、私たちはそういった「曖昧」な相互浸透という事態を言葉=概念によって切り分けて捉えることにあまりにも慣れてしまっている(例えば、「これは指」「これは手」「これは腕」...というように)ので、そういった認知のプロセスを欺き、そこから身を引き剥がし、またそこにおいて「現実世界」からある程度切り離されたビオトープ的な空間へと入場させるような、ある種の狡知(あるいは技巧、アート=技術、マニエール、マジック...)を駆使しないと、それ(相互浸透=同時性)をそれとして感覚することができないのではないか。複数種類のプランクトンを培養し、それを抽出してスライドグラスに滴下し、必要ならば染色などを施し、カバーグラスをかけ、「ステージ」に載せ、丁寧に倍率を合わせること...。「バイオ・アート」、というよりも、生気の技術としての実験、研究、創作...。触知可能な平面ーーただしそれは完全な「平面」となっては何も動きがとれないし、だからこそ厚みをもった平面なのだがーーを創作すること...。
最初に戻ろう。ではなぜ、そういった形で創作される同時性や重なり、浸透が、快をもたらすのか。それは、そういった事態においては、諸々の何かが(現実的、日常的にはまとまっている)諸々の何かから切り離された上で、ある場において、自由に、開放的に動き周り、また場合によってはそこで新たな出会いや出来事を迎え、そこにおいて、re-mediation=改善・修正=繋ぎ直しという形で、ある種の「マッサージ」を生じさせるからではないか(マクルーハンは自らの有名な文言をまさにre-madiateして「メディアはマッサージである」と言った...)。そしてまた、そこにおいて、まとまりを形成していたその何かの中で形成された無数の微小な閉鎖された空間、この隙間や孔に溜まっていたゴミや老廃物が排出されると同時に、その隙間を形成している壁が何かと接触し刺激されることによって、不快感として経験される「行き渡らなさ」とでもいえるような状態が解消されるからではないか。
このような意味で、例えば小説においては、(人物同士や人物と事物など以前に)何よりも、言葉同士が出会っている、また、文が出来事している、(そしてそのことによる快というものもある)ということができるのではないだろうか。
出会い...。そうした快の創作は、根源的な部分で、エロス的、あるいは欲望的な問題とも繋がっているだろう。その場その時の特異な「対面」=「キス」を創り上げること。非人称的な性(非-性的な性)における心地よい交わり、接触、愛撫を生み出すこと...(そしてもちろんこういった問題はコロナ禍の現在においてアクチュアルである)。
セルフ・プレジャー、自己-満足としての創作。誰がこれを否定できようか?

そしてまた、こうした創作観においては、(客観的なそれではない)「時間」さえも、結果として創作されるものであると考えられる。例えば朝、時間が早く過ぎ去るように感じられたりするように、音楽でも絵画でも、それらはそれら独自の時間制、時間帯、朝や夕方、あるいは深夜を作り上げるのではないだろうか。だからこそ、(僕の曲がこれまで述べてきたような点に関してうまくいっているかどうかは別にして、)曲の客観的な短さというのはやはりそれ自体としては問題にならないし、逆に、どんなに時間がかかったとしても、それは、その結果起こる「タイム・スリップ」あるいは「タイム・トリプ」によって、どうでもよいことになるのではないだろうか。そして、それはある種の救済ともいえるだろうか。僕らはそれを目指しているのだろうか?

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