揖夜神社|出雲国
御祭神
伊弉冉命(いざなみのみこと)
大己貴命(おほなむちのみこと)
少彦名命(すくなひこなのみこと)
事代主命(ことしろぬしのみこと)
配祀
武御名方命
経津主命
御本殿
大社造(御神座は出雲大社と反対向に御鎮座)
境内社
韓国伊太氐神社(からくにいたてじんじゃ)
御祭神
素盞嗚命
五十猛命
三穂津姫神社(みほつひめじんじゃ)
御祭神
三穂津姫命
境内
<特別神社>揖夜神社
御鎮座についての詳細は不明ですが、『古事記』神代巻には「伊賦夜坂(いふやさか)」について記述があり、『日本書紀』斉明天皇五年の条に「言屋社(いふやのやしろ)」、『出雲国風土記』に「伊布夜社(いふやのやしろ)」、『延喜式』神名帳に「揖夜神社」の記述があり、平安朝以前から広く知られていた古社であります。古より朝廷の崇敬が篤く、「三代實録(さんだいじつろく)」には、清和天皇の貞観十三年に「正五位下(しょうごいのげ)」の御神階(ごしんかい)が授けられた記録があります。武将の崇敬も篤く、大内氏、尼子氏、毛利家、堀尾家、京極家、松平家がそれぞれ寄進や社殿の修造を行っています。また、社殿の営繕は松江藩作事方で行われ、御遷宮には藩主の代参がありました。当社は出雲国造との関係が深い「意宇六社」の一であり、御遷宮には今でも出雲国造の御奉仕があります。
出典:境内 看板
意宇六社の一社「揖夜神社」
六社さんと呼ばれる出雲国意宇郡(現 松江市の一部)にある、国造家ゆかりの六社神社の一社として、崇敬されている揖夜神社ですが、古くは『古事記』『日本書紀』や『出雲風土記』に記述があり、少なくとも平安朝以前には広く知られていた由緒ある古社であります。その古い神社としての佇まいについて、嘗て作家の司馬遼太郎氏が当社を訪れ、自著の『街道をゆく』の中に以下のように記載されています。『どうやらそのあたりはふるく揖屋(揖夜、言屋)といった界隈のようだった。イフヤという地名は、いったり何語の、どういう意味なのであろう。車をとめた場所が、たまたま揖夜神社という神社の鳥居の前だった。戦前の社格は県社だが、鳥居をくぐってひろい境内に入ってみると、いかにも出雲の神社らしく社殿その他がひどく立派で、おおきなしめなわの姿なども他地方の神社を見なれた目からすればただごとでなく、ぜんたいに出雲寂びている。境内のすみに、林とまではゆかなくても樹木のまばらな一角があって、湿った黒い絹のような木下闇をつくっている。その淡い光のなかに祭神もホコラも個性ありげな摂社や末社がならんでいて、その一つ一つに出雲の何事かがにおっている。それらのなかに、「荒神社」という標柱の出た石のホコラがあった。荒神社(こうじんじゃ)でなく荒神社(あらじんじゃ)。とふりがなが振られていることが、おもしろかった。アラという呼称は日本の古い姓氏にも多い。安良(あら)という文字をあてたりする。太田亮博士は荒氏は「任那(みまな)帰化族なるべし」などと推量されているが、おそらく南朝鮮の伽耶(かや)地方を故郷とする氏族なのであろう。古代、朝鮮半島の全体もしくは一部を、カラ(韓)、カヤ(伽耶)、アヤ(漢)、アラなどと呼んだ。とすればこの「荒(あら)神社』も、韓神をまつるホコラなのかもしれず、すくなくともそんな想像を刺激してくれる。』当神社の佇まいについては司馬遼太郎氏が訪問された、四十年前と変わりありません。平成二十八年三月吉日 揖夜神社
出典:境内看板
特殊神事
穂掛祭(ほかけまつり)
祭りの前日に、中海の袖師ヶ浦で禊を修した後、社務所において新米をもって神酒や焼米などの神饌を調理し、当日穂掛榊(稲穂を榊に掛け瓢豇を付ける)を作って七十五か所に捧げ、その神饌をお供えする。
一ツ石神幸祭(ひとついししんこうさい)
袖師ヶ浦の沖にある一ツ石まで神輿を舟に載せてお運びし、禊を修して祭事を斎行する。穂掛祭当日の午後、当社の前灘より神船を出し、多数の船が先曳をなして祭事を執り行っている。本殿内の壁にその様子が描かれている。
遺跡
黄泉比良坂(よもつひらさか)
記紀神話の神産みや大国主の神話に登場する黄泉の国(根の国)との境である黄泉比良坂の比定地が当社の東方の東出雲町揖屋平賀にあり、石碑が建てられている。
出典:境内看板
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