「エモい」以外で話そうとする人と話したいと思う
この詩をみると、安堵のため息がでる。
なんでもかんでも名前がつけられていくことに対して、ちょっと冷笑的になっちゃうこの可愛げのない心に、そのままでいいんだよって言ってくれているような感じ。
名前がつくことには、いくつかの側面がある。
例えば、自分が悩んでいる症状に名前があるとわかると、安心できることがある。
しんどい状態が少しでも楽になるのは、ポジティブな面。
一方で、実際にはグラデーションがあってそれぞれ異なるはずのものごとが、ひとつの言葉で一括りにされちゃうこともある。
「エモい」ってどういう感情?
「~しか勝たん」って言うけど、実は3位くらいなこともあるでしょ。
「蛙化現象」についてはもはやそこまで冷めてなくてもウケ狙いで言ってるよね。
自分でも実態のよくわからない感情や考えを簡単な言葉で表現するのは、けっこうもったいないしつまんないとも思う。
ぴったりな表現を探すことの面白さ、自分の感情に向き合う機会と、それをしている人が醸し出せる魅力を、自ら手放してしまってるような。
たしかに、「エモい」「ヤバい」みたいにいろんなものが当てはまる単語で共鳴しあうのは、テンポが良くて気持ちいいんだけど、
がんばって言葉を探しながら自分の感情を説明したときの達成感と、それに相手が共感してくれた瞬間の高揚感には敵わないんだよ。
私みたいにその場ですぐ言葉が出てこない人は、エモいって言ったその日の帰りにでも中身を考えたらいいと思う。
以上、「ヤバい」の汎用性を留学生に力説した私がこんなことを考えていたっていい。
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