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成長に対する自己防衛

成長という概念は、どうしてこうも私の心をざわつかせるのか。



最近フォローした、お菓子づくりのアカウント。
個人でお菓子をつくって、販売する人が運営しているSNS。

写真にうつる焼き菓子たちがすごく美味しそうで、更新されるたびにチェックしては買いに行ける日を夢見て楽しんでいた。


その運営者さんが最近、新しい販売形態としてサブスクを始めていた。
ん、なんか毛色変わったかなと思いつつ、その概要と想いが記されていたので読んでみる。
そしたら、


「20代はチャレンジしまくりたい」
「成長したい!」


そんな言葉が出てきて、



一気に突き放された気がした。





成長したいとか、上にいきたいとか、そういう宣言にふれるとき、すごいなあと思う気持ちの裏側でざわざわと心が粟だつ感覚になる。

起業家精神のようなものを持つ人の意志表明には、目は釘付けになりながらもすぐさまそこから離れたいと思ってしまう。

素直な感心と、それを上回る心理的抵抗。

なんでだろうって、ずっと疑問だった。




向上心を顕示する人の声には、周囲を波立てる力があると思う。

そのポジティブな面が「啓発」なんだろうけど、私の場合はネガティブに働くことが多い。

目標をもっている人が「上」にいて、それに向かっている人が「前」に進んでいるように見える。

ついていけない自分の、その遅れのようなものを認めたくない気持ちが、アレルギー反応につながっているんだろう。

自分の没頭してることをみんなに伝えたくて仕方なくて、伝えれば周りの人も良い刺激を受けるものだって、信じてやまない人たちの世界ですよねと、
冷めて距離を置くことで自分を保つ。崩れないように。

そう、あの成長したい運営者さんを突き放したのは、私のほうだったのかもしれない。





でも、そんな私に芯があることも確かである。

私たちは発展するために生まれてきたのではない。幸せになるために、この地球へやってきたのだ。

ホセ・ムヒカ大統領

こんな言葉を、本当にいいなと思うこの心はきっと、成長を顕示できる人生を歩みたいわけではないんだろう。



おそらく、私にとって成長讃美の世界は

「そそられるが目指したいものではない」

という妙な位置づけになっていて、心酔することはないくせに気にはなっちゃうからこそ、あんな卑屈な態度を取ってしまうのかなあと思う。


本当は、人のやる気を素直に応援できるようになりたい、ただそれだけなんだけどね。





なんか陽キャをひがむ陰キャみたいになったけどそんなつもりはないんだけど、

ま平たくいうとそういう現象なんだろうな。





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