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細かい技には高いクオリティが欠かせない

突然だが、ジブリ映画では「千と千尋の神隠し」がダントツで好きだ。
今年6月より、「一生に一度は、映画館でジブリを。」というスローガンのもと、「千と千尋の神隠し」を含む4作品が映画館で上映された。

どの作品も映画館で観たことがなかったのだが、「千と千尋の神隠し」は絶対に観たいと思い、おもいのほか空いている映画館でチケットをとった。


言わずもがな、とても良かった。
今まで10回は優に観ていると思うが、やはり大きなスクリーンで観るのは全然違った。今まで見えていなかった細かい描写や動きがはっきりと見えたし、やはり映画館で見る映像は没入感が全く違うため、聞き慣れたセリフの説得力まで違って聞こえた。


ジブリ映画には、「都市伝説」みたいなストーリーが多数ある。それは映像から、監督の言葉から、歴史からなど、様々な場所から沸き起こる。嘘かほんとかなんてわからないが、そういう考察を眺めるのもジブリ映画の楽しいところだと思う。

たとえば「千と千尋の神隠し」では、千尋が油屋で働くための契約書に書いた名前を、本当の名前の「荻野千尋」ではなく(故意に?)漢字を一部書き違えていることが言われている。だから湯婆婆に名前を取られず人間の世界に戻れたのだと。


こういう逸話は楽しいが、ふと、これは圧倒的な作品のクオリティがないと成り立たないものだなぁなどと思った。この間違った漢字の違いはとても些細なことで、言われなければ気づく人などほとんどいないはずだ。だが言われてみるとたしかに違っている。そしてそれは「意図的な」表現であり、この物語における「名前」の重要性に改めて気づく。

これが、ジブリ映画ではなかったら?
これほどの完成度や熱量を感じられる作品ではなかったら?
私はおそらく、万が一この漢字の違いに気づいたとしても、「あ、ここの漢字間違ってるな」と思うにとどまったのではないだろうか。

つまり、細かい描写表現は「間違い」と捉えられやすく、作品全体のクオリティが高くなければ成り立たないということだ。


これは映像作品に限らず、ものづくりや表現活動全般にいえることだと思う。

例えば金属の表面に溝を掘って細かい表現をすることには、そのモノ全体の歪みやキズがないかなどのクオリティが重要になってくるだろう。

ファッションのコーディネートで、きれいめの格好に敢えて「ハズシ」としてラフなアイテムをあわせることがあるが、ほかの部分も洗練していなければそれはお洒落に見えない。髪の毛の手入れができていないとか、施したネイルが剥げているとかそういうことが重要になってくるかもしれない。


ものづくりや表現は、じっくりと完成度を上げれば上げるほど、細かい部分のエッジがちゃんと見えてくるのだ。という感想。

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