見出し画像

【書評4】 トルストイ 『人はなんで生きるか』

はじめに

 トルストイ『戦争と平和』を読みたいと思って本屋に寄った時に、隣に並んでいたのがこの短篇集『人はなんで生きるか』であった。これを先に読んでから『戦争と平和』を読むことにしようと考え、本書を手に取った。

 トルストイの作品は前期及び後期に分かれており、後期の作品はより道徳的・宗教的な意味合いが濃いものとなっている。本書『人は何で生きるか』は後期トルストイの短篇民謡を5本収録したものである。本書末に収録された訳者解説を引用し、後期トルストイの作風を簡単に紹介する

まず第一に真の芸術は、人生のために何らかの効益に寄与するものでなければならぬ…したがってこんにちの芸術のように、美や享楽の上ばかりに立脚するものでなく、宗教的感情を土台にしたものでなければならぬ。…一般の民衆によく理解されるもの、すなわち世界的宇宙的に普遍なものでなければならぬ。そしてそのためには、形式・表現が明瞭で、単純で、簡素でなければならぬ、こうトルストイは主張するのである。(トルストイ, 1932, 中村白葉訳 pp.180-181)

第一篇 「人はなんで生きるのか」について

 本書の五つの短篇は、いずれも上記のトルストイの芸術観が体現されている。極めて平易で分かりやすい構成、ストーリー、人物関係でありながら、キリスト教の「愛の福音」が力強く説かれているものになっている。第一篇『人はなんで生きるのか』のあらすじを取り上げてみよう。

 ある冬、貧しい靴屋の主人セミョーンは、教会の路端で衰弱している天使ミハイルを見る。(神はミハイルに3つの問いかけをし、それを悟らせるためにミハイルを地上に堕としていたのだが、セミョーンはそれをまだ知らない。)セミョーンは最初彼を無視して通り過ぎようとするも、聖書の言葉を思い出し、服を着せて家に連れて帰る。家では妻のマトリョーナが、客人を連れてきた夫のお人好し加減に呆れ、怒り、彼を追い出そうとするが、しかし彼女も聖書の言葉を思い出し、主人とミハイルに食事を振る舞う。ミハイルはその後セミョーンに靴の縫い方を教わり、6年もの間その家で過ごす。その間ミハイルは幾多の客の靴を縫い、そうした客たちとの対話のうちに神様の問いかけに対する答えを見つける。3つの問いかけとは、「人間の中にあるものは何か」、「人間に与えられていないものは何か」、「人間はなんで生きるのか」というものであった。これらの問いの答えを知った時、ミハイルは満足し、昇天していった。

 この作は、何か懐かしい風景、伝統的共同体に道徳律に従って生きる人々の生活を思い起こさせ、読者に優しさに包まれたような感覚を与える。このnoteのサムネイルにしたミレーの「落穂拾い」の風景そのもの、中世農村の人々の生活風景が目に浮かぶのである。それはトルストイの優れて写実的な描写によるものでもあるし、作品ににじみ出るトルストイの深い人間理解や宗教心に心打たれるからでもある。訳者の中村氏は、トルストイの民謡に対し「そこにはトルストイの、素朴な人間の善意に対する確かな信頼が息づいている。」(訳者, 1932)と評している。

社会科学は倫理をどう扱うべきか

 本作を読んでトルストイに対する興味は一段と深まったが、人物論や本作に対する評論は他稿に譲り、『人はなんで生きるか』に描かれた共同体的社会について少し考察したい。

 トルストイ自身はキリスト教の教義に対し深い関心を抱き、『新約聖書』『旧約聖書』を精読して『四福音書の統一と翻訳』及び『要約福音書』を著している。これらの著作では既存の教会権威が否定され、精神的な信仰に戻ることが説かれており、トルストイは教会からの破門を受けるに至っている。しかし彼はそうした苦難の中にあっても、信仰心を固く守り抜き、形式的教会キリスト教を批判し続けたという。『人はなんで生きるのか』に収録されている民謡にも、精神的に敬虔な信仰心を持ってその宗教的道徳律に従って生きる人々が幸福を、そうでないものが惨めな最後を遂げる姿が描かれている。

 ここでトルストイ運動という社会運動について触れたいと思う。トルストイ運動とは、ロシアを始めとする各国でトルストイの作品に宗教的、道徳的に感化された人々によって数百もの農村共同体が建設された社会運動である。運動の参加者はキリスト教徒で、非暴力、隣人愛といったキリスト教的倫理に従って労働に励むことで、既存の国家に変わって平等で自由な社会を建設することができると考えていたという。(トルストイ運動に影響された人物として、非暴力で知られるマハトマ・ガンジーが知られている。)

 さて、トルストイが民謡で描いた農村社会の姿は多くの人を感化し、影響を与え、それは新しい農村共同体の出現という現象さえも伴った。それほどまでに倫理的・道徳的な心的態度は社会にとって重要なファクターなのだ。

 そこで次のようなことに思い当たった。それは、道徳や倫理観が社会統合の重要なファクターであるにも関わらず、経済学では一切顧みられていないということだ。経済学を学んでいるとそんな当たり前のことが見えなくなってしまうのだなと思った。

 例えばマルクス主義では、生産と所有関係、具体的には土地や労働力を所有する資本家と、労働力を商品として提供する労働者の二項対立がまず前提にあって、この「生産と所有の関係」が社会の倫理的、社会的、文化的要素を規定すると考える。また、新古典派経済学では、「生産と所有の関係」は社会の倫理的、社会的、文化的要素とは独立していると考える。また制度主義経済学も、生産倫理という概念によって職業規範を仮定するにとどまり、やはり道徳や倫理観に対する説明力は弱い。現実社会はそうではない。現代社会にも少なからず隣人愛や非暴力といった道徳律が社会の根底を貫通しており、それが生産や社会関係、文化に影響を与えているはずである。

 この問題は、例えば自然科学がヒトの細胞の働きを特定し、生命がどのようにその生命を維持するのかについて説明することはできても、なぜ生命が存在しているのか、なぜそれは生き、そして死ななければならないかについては説明できないことと同根の問題なのではないかと思う。だとすれば、社会科学の女王たる経済学はどのようにこの問題に立ち向かえばよいのだろうか。

経済学はどう乗り越えるか

 1つの方法は、社会の経済的側面以外の面を取り扱うという方法である。例えばシュンペーターをその創始者の一人とする財政社会学は、社会を市場経済の領域、政府の領域、私的な領域の3つの領域に分け、その結節点を財政と位置付ける。その上で財政の3つの領域への重層的な働きを分析しようとする。新古典経済学は経済活動についてのみ数学的モデルを使って社会を説明しようとするのだが、経済活動以外の要素については別の理論枠組みを用いる必要があるだろう。

 2つめの方法は、経済学自体が目的を発見し、それを達成するための解決策を提示するということである。イェール大学助教授の成田さんがシンポジウムで報告された「EBPMは本当に有効か?エビデンスに基づいて考えなおす」という資料では、村上春樹の「風の歌を聴け」から次の引用がなされている。

「その時期、僕はそんな風に全てを数値に置き換えることによって他人に何かを伝えられるかもしれないと真剣に考えていた。そして他人に伝える何かがある限り僕は確実に存在しているはずだと。しかし当然のことながら、僕の吸った煙草の本数や上った階段の数やペニスのサイズに対して誰ひとり興味など持ちはしない。そして僕は自分のレーゾン・デートゥルを見失い、ひとりぼっちになった。」(村上春樹『風の歌を聴け』)

 本資料ではEBPMに焦点を絞って議論が展開されているが、私はEBPMを経済学と置き換えても同様の結論に至るのではないかと思う。すなわち、経済学がいくら社会現象を数値化しても、社会のレーゾン・デトゥール(存在理由)をむしろ見失ってしまうだけであり、それを超克するには経済学自体の成果から目的を抽出し、それに対する解決策を自ら提示すべきだと言う。

 いずれにせよ、今日の経済学の限界をトルストイの作品の中に発見することになるとは思わなかった。これからもジャンルを超えて乱読に励みたいと思う。

今度はトルストイの別の著作にも触れてみようと思う。

以下の本も併せて読みたい

追記

本書とは全く関係がないが、書評には毎回10時間以上かけておりそろそろ仕組みを作らなければ限界だなと感じている。それなりのインプットをしているので仕方がない部分もあるが、もっとたくさんの本を読んでひたすらアウトプットをしたいので能率を上げていきたい。形式的な部分をテンプレにしたり問いの立て方を固定してみたりなど、今後も工夫して続けていこうと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?