見出し画像

【時事通信コラム】特攻80年の夏、京都「わだつみ像」前にて/20歳で散った伯父/美化の機運に危うさ/「戦争協⼒への痛切な反省」を掲げる🏢立命館大に学べ🥎元朝日新聞記者 飯竹恒一【語学屋の暦】

【写真説明】本郷新作「わだつみ像」。当初設置予定だった東京大学が拒否し、立命館大学が1953年に受け入れた=8月8日、京都市北区の立命館大学国際平和ミュージアム(撮影:飯竹恒一)

この記事は下記の時事通信社Janet(一般非公開のニュースサイト)に2024年8月20日に掲載された記事を転載するものです。


この夏、東京の実家に、95歳の父に宛てた封書が届いた。

「今年は、特攻隊の節目の年である」という一節が、「特攻隊戦没者慰霊顕彰会」の会報「特攻」の8月号に寄せた岩﨑茂理事長の挨拶文にあった。今年10月で1944年の初出撃から80年になるという。

ちょうどこの8月1日で、阪神甲子園球場(兵庫県西宮市)が100周年を迎えることが話題になっていた。100年前の1924年は、暦の干支(えと)を構成する「十干」と「十二支」それぞれの最初の「甲」と「子」が組み合わさる年で、それが「甲子園」の由来とされる。

阪神甲子園球場(撮影・飯竹恒一)


父と私にとって「甲子」にはもう一つの意味があった。その年に生まれ、「甲子郎」と名づけられた父の兄、すなわち私の伯父が20歳で特攻死していた。

伯父の遺影を見て育った私が特攻隊に向き合ったのは、古巣の新聞社の長野時代だった。2005年に地方版の戦後60年企画で特攻隊を担当して取材を進める中、不思議な縁に遭遇することになる。その伯父の名が刻まれた石碑に出会ったのだ。

「海軍神風特別攻撃隊菊水部隊銀河隊之碑」。長野県東部の東御市の長命寺に、隊長として海に散った坂口昌三さんの父親が建てていた。実家の父に話すと、父は宮崎から飛び立った兄を慕っていたが、末っ子のため最後の面会に行く家族の一行に加えてもらえなかった苦い記憶を改めて口にした。


「明日は自由主義者が一人この世から去っていきます」。長野出身の特攻隊員だった上原良司さんは、戦没学生たちの遺稿集「きけ わだつみのこえ」の冒頭にこうつづった所感が掲載されたことで広く知られる。その刊行収入で制作された「わだつみ像」が立命館大学(京都市)の国際平和ミュージアムに置かれていた。そこに初めて足を運んだのも、この時の取材の一環だった。同じ長野出身で、当時同大1年だった丸山奈津季さんがわだつみ像に触発され、反戦の詩集に取り組む思いを取材するためでもあった。丸山さんは例えば、こんな詩を書きつづっていた。

「始まりはなんだったのだろう? 戦いの歯車は いつ回り出した?/その答えを 今は 遠い過去から 取り戻せないのなら思い出して」

***


猛暑が続くこの8月上旬、19年ぶりにミュージアムを訪れた。2014年、まともな国民的議論もないまま政府の憲法解釈が変更され、閣議決定で集団的自衛権の行使が容認されて以来、私自身、平和憲法が軽々しく踏みにじられる事態にいら立つ日々が続いていた。謙虚に平和を目指すことで再出発したはずの戦後日本の原点を、京都で再確認できるかもしれないという期待があった。

本郷新作「わだつみ像」。当初設置予定だった東京大学が拒否し、立命館大学が1953年に受け入れた=8月8日、京都市北区の立命館大学国際平和ミュージアム(撮影・飯竹恒一)


しんと静まり返った1階フロアの片隅に、黒光りするわだつみ像がひっそり立っていた。しばし向き合い、一礼して脇の階段を降りると、2023年にリニューアルしたというミュージアムの常設展示に導かれた。圧巻だったのは、壁沿いに横長に新設された全長70メートルの年表で、1840年のアヘン戦争から、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻までを一気に概観できる工夫が施されていた。

「ペンを銃に持ちかえて」(Holding guns instead of pens)。その年表をたどる中、私が目を見張ったのは、1943年の事情をつづったこのパートだった。「国家総動員体制のもと、学生や生徒たちも戦争に動員されていきます」「立命館大学は約3000人の学生を戦地へと送り出し、軍隊に志願しない朝鮮・台湾出身の学生を除名処分としました」という史実が、淡々と描かれていた。

***

ミュージアムを訪れたのは、4年生の下田千倖(ちゆき)さん(22)に会うためでもあった。下田さんも長野出身。西澤あかりさん(3年)、竹内凜さん(3年)、小林秀太さん(2年)と一緒に、「戦争を語り継ぐ私たち」
と題する企画展をミュージアムで10月に開く準備を進めていた。

企画展「戦争を語り継ぐ私たち」に取り組む下田千倖さん=8月8日、京都市北区の立命館大学国際平和ミュージアム(撮影・飯竹恒一)


下田さんが担当するのは、日本が中国東北部につくった旧満州国(1932~45年)へ渡った開拓移民の史実。現地に渡った27万人のうち、長野県からは全国一の3万3千人を数えた。詳しい事情は分からないが、曽祖父母も満州からの引き揚げ者だったと聞かされて育ったことも、関心を深める動機だったという。

剣道に打ち込む高校生だった下田さんは、その傍らで日本語を教えるボランティア活動を通じ、技能実習生として来日していた中国人たちに接した。火事が起きれば中国人による放火だと決めつけるような風潮があった中、実際に接した中国人はそれぞれに個性にあふれる魅力的な人たちだった。

大学に進んで中国語も学び、中国への理解を深めたと思っていた矢先の1年の冬のことだ。オンラインにおける日中の若者の討論イベントで、中国の学生から「日本の若者は自国の歴史や政治に無関心で無責任。だから、日本人と仲良くしたくない人もいる」という痛烈な発言があった。日中間に横たわる歴史を学ぼうと思ったきっかけだった。


群馬、広島などの各県にも足を運び、学習会に参加したり、聞き取り調査をしたりした。その過程で、曽祖父母はそれぞれ陸軍兵と従軍看護婦として満州に渡った現地で知り合ったことが浮かび上がってきた。

「夢を描いて行ったが、行くんじゃなかった」という声も聴いた。国策に従って家財や土地を捨てて満州に渡ったのに、日本に引き揚げると十分な補償がなかったのだ。切なかったのは、話を聴いた人たちの多くが満州生まれで、「日本では引揚者といじめられた。満州の方が良かった」と語ったことだった。純粋な郷愁の念と、日本の満州における行いを巡る反省の念の板挟みにあっていた。

「国策に個人が巻き込まれて、加害者にも被害者にもなった」。下田さんは企画展に寄せる思いをそう語った。若者からこんな含蓄のある言葉を聞いたのは本当に久しぶりだった。ミュージアム再訪が報われたと思えた瞬間だった。

***

下田さんの言葉にも突き動かされ、私は「国のために命をささげる」ことの意味を考えた。思い出したのは2通の遺書だ。

一つは第2次世界大戦中、フランスを占領したドイツ・ナチスに抵抗した「レジスタンス」の英雄ギ・モケが、死を目前に17歳で書き残した手紙だ。


「もちろん、僕も生きていたかったけれど、心の底から望むのは、僕の死が何かに役立つということだ(・・・)僕の人生は短かったけれど、みんなと別れること以外悔いはない」(Certes j’aurais voulu vivre, mais ce que je souhaite de tout mon cœur c’est que ma mort serve à quelque chose. […] ma vie a été courte, je n’ai aucun regret si ce n’est de vous quitter tous.)

パリの高校生だったギ・モケはビラ配布を理由に逮捕された。ナチス将校が殺された報復として、1941年10月22日、仲間26人と一緒に射殺される。レジスタンスでは約3万人が銃殺され、収容所や戦闘でも多くの人が命を落とした。

もう一通は、善光寺(長野市)の常円坊に生まれた若麻績(わかおみ)隆さんが、1945年4月の出撃前、飛行機の脇で書いたものだ。23歳だった。

「国の為(ため)になって男の意地が立てばそれでよいと思います/出撃の命が下りました。隊長は地球を抱いてぶっ倒れろと云(い)います/空母の一隻、敵兵の二・三千小脇にかかえて地獄の門をくぐります」

戦勝国だったフランスと敗戦国だった日本では、こうした遺書の意味合いが違うという見方もあるだろう。しかし、私の伯父が親族宛てに残した手紙もそうだが、死を覚悟した人が決まって口にするのは、本心とは裏腹の勇ましい言葉や、「安心して」「心配しないで」という家族宛てのメッセージだ。遺族としては逆に、「その犠牲の上に今日の国の繁栄がある」といった美辞麗句だけでは消化し切れない複雑な感情にさいなまれることになる。ギ・モケの遺族も含め、残された者たちの思いは、若麻績さんの母親の八重子さんが生前に書き残した次の一文に集約されていると思う。

「世界の戦争史の中でも、あきらかに異常無謀な作戦であった特別攻撃隊の如(ごと)きを、再び繰り返してもらいたくない」

***


特攻隊の当時を直接知る関係者が年々減る中、冒頭で紹介した特攻隊戦没者慰霊顕彰会は今年、インスタグラムなどを活用した情報発信に力を入れている。その趣旨は否定しないが、気になるのは「御英霊に対し感謝」「特攻隊の意義を再考」といった言葉が繰り返される一方で、上記の八重子さんが言い切った「異常無謀な作戦」という批判の視点が決定的に欠落していることだ。

その点、ミュージアムが拠って立つ視点は異なる。館長の君島東彦・立命館大学国際関係学部教授は、そもそも1992年にミュージアムが開館した背景の一つとして、「わだつみ像が象徴する立命館大学の戦争協力への痛切な反省」を挙げている。

100年前にこの世に生を受け、たった20年で逝った伯父に思いをはせながら、わだつみ像の精神を引き継ぎ、この京都の学びやで平和を願い、過去を凝視する若者たちがいることに救われる思いがした夏の一幕だった。

***

下田さんたちが取り組む展示「戦争を語り継ぐ私たち」は、同ミュージアム(https://rwp-museum.jp/)で10月21日から11月3日まで開催される。

飯竹恒一(いいたけ・こういち)
フリーランス通訳者・翻訳者
朝日新聞社でパリ勤務など国際報道に携わり、英字版の取材記者やデスクも務めた。東京に加え、 岡山、秋田、長野、滋賀でも勤務。その経験を早期退職後、通訳や翻訳に生かしている。全国通訳案内士(英語・フランス語)。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?