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雑記① 初めてゴッホを観たわけで

つい最近、ゴッホの展覧会が開催されていて、初めて生で観賞してきた。

日記くらいのイメージで、雑記しようと思う。

お昼ご飯に今まで行けてなかったスパイスカレーのお店に行って、そのまま美術館に向かった。

平日だったけど、ひとも多くて、少しだけうざったかった。
でも、だんだん集中して観始めてから、そんなことどうでもよくなった。

始めの方に、ゴッホの素描が展示されていて、
「なるほど、ゴッホさんもこんな絵を描いていたのね」
と思いながら観ていた。

そのあたりで、トイレに行きたくなった。
我慢できるかしら、と思ってちょっと奥を覗くと、終わりが見えないくらいの展示があったから、思いきってトイレに行った。
トイレに向かう道すがら、お昼に食べたスパイスカレーが頭に浮かんでた。

彼女と一緒に観に来ていたのだけれど、僕がトイレに行ったせいで彼女とはぐれた。
"はぐれた"はちょっと表現として間違っているかもしれない。
正確には、トイレから帰ってきて、彼女の位置を把握したけれど、無理に追い付こうと、急ぐ気分にもなれないし、急ぐ必要もないし、なによりひとりで観賞したかったから、"わざと"ひとりで観賞することを選んだ。

世界史の教科書でしか絵画を観賞してこなかった僕が言うのもなんだが、ゴッホの絵は、"言葉では言い表せない"という言葉が陳腐に聞こえるほど、総じて素晴らしかった。
 
特に、『種まく人』には、とんでもないパワーを持つ作品だった。
あまりのパワーに、僕の精神が身体から押し出されたような、そんな気さえした。
もしかしたら、実際に後退りをしていたかもしれない。
ミレーが描いた『種まく人』のオマージュであるらしい、この作品からは、偉大なる太陽の神々しさ、その太陽の光を一身に受けた農民の力強い歩みが示されていた。

これは、ゴッホのどの作品にも言えることだけれど、写真やスマホで観たものと、生の作品とでは、雲泥の差があった。
当たり前だけれど、僕は今までこんなにも差があるなんて知らなかった。
雲と泥にどれだけの差があるか、わからないけれど。


すべての作品を一度観終えて、彼女と合流した。その後、どの作品が良かったか、というような話をして、その作品をもう一度観に行った。
僕は『種まく人』の話をした。

そして彼女の番。
彼女は、『レモンの籠と瓶』というのが好きだと言った。

僕ははっきりと、鳥肌が立った。
なぜなら、僕も同じ作品の前で、かなりの時間を過ごしていたから。
彼女に理由を訊ねると、
「ぐわぁって感じでなんか良かったぁ」と言った。
「わかるなぁ、その気持ち」と、ずっと心の中で頷いていた。

でも、『レモンの籠と瓶』の話をしている時、僕は声に出して、彼女に返事をしなかった。できなかった。
僕の頭の中では、この絵に対する感情が、まだまとまっていなかったから。

ゴッホ展に訪れた前日、僕は古本屋である本を買っていた。
その本が、梶井基次郎の『檸檬』だった。
ゴッホにレモンが描かれた絵があることなんて、まったく知らなかったし、世界史の教科書にもたぶん載ってなかった。
ただ、いつか読んでみたいな、と思っていてそれが偶然、前日に100円で売ってあったから買って、寝る前に、読んで寝た。
『檸檬』は短編だったから、すぐに読み終わった。
そして、ゴッホ展の『レモンの籠と瓶』である。

僕は、ひとりでに、奇妙な運命を感じており、だからこそ、あの作品の前で立ち止まった。
計らずも、彼女もそこで立ち止まっていた。

僕は、なんだか『レモンの籠と瓶』を理解するために、『檸檬』を読んだ気になったし、『檸檬』を理解するために、『レモンの籠と瓶』を観た気がした。
そして、彼女とって、あの絵が印象に残り、僕に伝えてくるまで、それらすべてが繋がっているような気がした。

ここまでくると、僕にとっても、"レモン"という果物が、ゴッホや梶井基次郎と同じように、なにか特別な果物のように思えてきてならなくなった。

夜になって、彼女にこの話をして、梶井基次郎が書いた"真黄色の檸檬"とゴッホの描いた"くすんだレモン"は同じレモンなのだろうか、という話をした。
彼女は『檸檬』を読んでいないから、わかったような、わからないような顔をしていた。

別々に行動していたけれど、彼女と一緒に行ってよかったと思った。

この日人生で初めて、"レモン"という果物が頭から離れなかった。

彼女と一緒に行ってよかったと思った。

ちなみに、入場料は二千円で、学生が千三百円だった。
僕は、「映画と同じくらいだな」と思って、
ゴッホ展に向かう道中で、
「映画と同じ、二時間半は観てやろう」と、彼女に冗談混じりに言った。
観終わって、心から反省した。

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