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なろうのエッセイが今、ヤバいらしい

フォロワーの熊さんが嘆いていた。
(熊ノ翁さんは面白い切り口で小説を語ってくれる方です)

どうやら、特になろう(「小説家になろう」という小説投稿サイト)のハイファンタジージャンルを席巻している人たちが、今度はエッセイジャンルにまで乗り込んできたというのだ。

私は書きたい作品があるなら思うままに書けばいいと思う方なのだが、なろう等の小説投稿サイトで起きている現象には憂慮している部分もある。
作品の内容そっちのけで、タイトルやテーマを人気の読まれやすい題材を並べて、まるでSEO対策ばりに題材に操られて本質を失ってしまった作品の多いこと多い事。
こういう人は、小説家よりマーケターの方が向いているのではないかと思ってしまう程だ。
中にはそれを逆手にとって、テーマを上手く使った面白い物語を書かれている方もおられる。
けれどそれはほんの一握りだ。

最もよくないと思っているのは、そんなキーワードを並べ立てた長いタイトルの作品を投稿しても、始めのうちに伸びなければさっさと捨てて別のものを書き始め、動物の脱皮の如く抜け殻を残していく人たちの存在だ。
自分の作品を、一体なんだと思っているのだろう。
私もアルファポリスで少しばかり流行りのテーマに触れる形で作品を書いたことがあるが、例えあまり伸びなくても話がひと段落するまでは書ききったし、続きのストーリーもいずれ書く機会があればと温めている。
現在は様々な兼ね合いで、そちらに手を出すことは出来ないが……読んでくれる人が少なくとも、また続きを書きたいと思っているのだ。

これは自分の仕事に対してもそうで、どんな作品を書いたとしても、やはりそれに愛着や大切にしたいという思いは付いてくるものだ。
仕事を終えて完成した一区切りの物語も、次も自分が担当できたら嬉しいと思うし、例えばそれがお蔵入りになってしまったら、「仕方ないですよ」と言いながらも世に生み出されることがなかった作品を思って心で泣く。

しかし前述の、冒頭からたいして進んでいないのに捨てられていった作品群はどうなのだろうか。
作者はその作品に対して、愛着の欠片程度のものでも持っているのだろうか?
私にとっては全く理解できない行動なのだ。
確かに自分が作りだしたものを多くの人が見てくれるのは嬉しいことだが、それは自らが愛着を持ち、手塩に掛けて作り育ててきたからこそではないだろうか?
注目され、多く読まれるだけが全てなのだろうか。
そう考えてやまないのだ。

そんな蝗の群れの如き人々が、今度はエッセイジャンルに乗り込んでくる兆候が見られると。
前々からそのジャンルを根城にして親しんでいる人が、嘆いている。
その状況を見て暗澹たる思いを抱いてしまうのも否めないが、今は見守るしかないのだろう。
本当に大移動してきたら、エッセイに親しんでいた人たちは困ってしまうかも知れないし、場合によってはサイトを見るのをやめてしまうこともあるかも知れない。
居場所がなくなってしまうのは寂しいし、新天地を見付けるのも一仕事だ。
それを憂慮している。
みんな、もっと自分の文章に愛着を持って、中身を磨いていくことを考えてくれるといいのだが。

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