見出し画像

好きの渋滞を語る:僕のヒーローアカデミア

エヴァンゲリオンの記事を最近よく見る。
いや、なぜかおすすめにあがってくる。
どうなってる、noteのアルゴリズム・・・。

TVシリーズを見た事あるし、面白かったことも記憶している。
(最終話で寝てしまったことは置いておこう)
けれど、映画版は見たことなく、ストーリーもうろ覚えだった。
だから、今回の終止符となる最新映画が気にはなるが、重い腰を上げるには、タイミングが悪かった。

何故なら昨年末から、わたしの頭の中は「僕のヒーローアカデミア」の第5シーズンのことでいっぱいだからだ。

僕のヒーローアカデミア、通称ヒロアカ。
知ってはいたし、例の鶴の後輩がそっち系の妄想を繰り広げて駄々洩れにしている事が多いので、ストーリーは知らねどキャラは知っていた。
だけど、個人的に「ヒーロー」と名が付いているが故に、どうしてもチープな印象しか持てず、昨年末までアニメを見たことはなかった。

「ヒーロー」とか「英雄」とかいう言葉があまり好きではない。

何か付加価値が与えられていても、基礎の部分は人間であることが多い。
(スーパーマンはクリプトン星人なので、違うかもしれないけれど)
それなのに、外野は彼ら/彼女らに期待し、裏切られると意図も容易く手のひらを反す。そんな外野に一喜一憂しながらも、懸命に応えようとする彼ら/彼女らがいる。
そういう構図がたくさんあって、ヒーローとヴィランの白か黒しかない世界が、滑稽な悲劇に見えて仕方なかった。

だからヒロアカもそんなに興味がなかったのだけれど、在宅で時間が出来たので、アニメを見漁っていたところ、たまたまNetflixに上がっていたのだ。

初めの数話は流し見をしていたのだけれど、シーズン1の後半へ行くにつれ、ストーリーは加速していった。
「個性」という超人能力を保持している人間が大多数の世界。
個性を持ったすべての人間がヒーローになり得る世界で、ヒーローは人気職業となり、個性を活かして人々を助けている。
この世界では、全ての人間は同じ階層にいる。ヒーローもヴィランも一般人も。
そこがこれまでのスーパーヒーロー系の、「ヒーローは全人類よりも更に上の層にいる」という前提条件を打ち捨てていて、入りやすかった。

そして制作会社ボンズの作画と林ゆうきさんの音楽である。

ボンズは「亡念のザムド」(古い)や「交響詩篇 エウレカセブン」(またもや古い)を作った会社だ。
鬼滅の刃のufotableのCG系による戦闘シーンとは異なり、古き良き、っていうと語弊があるけれど、昔のザ・作画っていう絵を動かすことを得意としていると思っている。

だからこそで、オールマイトと能無との戦闘、デクとオバーホールとの戦闘、そしてエンデヴァーとハイエンドとの戦闘の見ごたえは、常軌を逸している。
見ながら頭の片隅で、アニメーション作ってる人、大丈夫か?と心配するくらい。

その鬼のような作画に、鬼のように気持ちを左右する音楽が付いてくるから、漫画で見ていたキャラをアニメーションで追うのは最高に楽しかろうと思う。ちなみに漫画はまだ読んだことはない(まだ)。
林さんの音楽は、有名どころだと、同じくジャンプの作品「ハイキュー」でも使用されている。
演出の手腕もあるのだろうけれど、盛り上がるところでの音楽はもちろん、うるっとくる時の音楽など、繊細な場面の曲作りも鬼なのだ。
わたしは勝手にポスト菅野とひそかに呼んでいる。
ちなみに今年から始まるシャーマンキングの音楽もこの人が担当しているそう。鬼か。

「ヒーロー」と名がついていても、「人間」というカテゴリーから乖離していないヒーローたち。
だからこそで、「ヒーローになる」という言葉がとても身近で、雲をつかむようなセリフではない。
それは現実的な「夢」であり、実現可能なものなのだ。
その夢に向かい、苦難に立ち向かいながら成長していく高校生達の青春が、とても一般的で眩しい。

畏怖の念での「ヒーロー」ではなく、尊敬の念からの「ヒーロー」が描かれているから、見ていて心を動かされる。

ちなみに好きなキャラは相澤先生とミリオで、最強だと思っているオープニングは米津玄師のピースサインだと思っている。

おしまい

頂いたサポートは、note記事へ反映させます! そしてそのサポートから、誰かとの輪が繋がり広がりますように...