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病と麻薬

 欧米コンプレックスはすでに時代遅れだ。日本人は日本人がつくるものが馴染むものだ。知らないと勿体無い。
 日本の廃れそうなものや素晴らしいものがある。潰れそうな農家さんの納豆を行商した時期に気がついている私がいた。大豆は凄かった。美味いし、身体が軽くなっていた。しかし、社会は受けれるのは大変で、稼業とはいえ本当に売るのは苦労した。そんな商売を通しての経験を、今でも路上で語っている。

 外国人の大工さんは質が悪かった。日本人の爺さん大工にどやされて、驚いていたのは彼らだけでなく、私も全く同じであった。

"格好よかったー"

 これまで通りすがった、業界ではあり得ない価値観である。どこか日本人をナメているのは普通で、それに媚びに媚びた日本人がいる。また、誰か同じ日本人にマウントをとる構えを準備している顔だ。

 何度も何度も何度も、そんな場面に出くわして、腹が立つ私は確実にいた。

 そうゆう時は宗教観に委ねる事にビビんない事と、路上で学んだわけだ。彼らは奥の奥の奥までの理解はないわけだ。
 もう少し踏み込んで考えてみる。日本の職人は、その地道で丁寧な仕事の毎日毎日の先に、道具を含めて仏やカミを柔らかく感じたりもする。雇用と非雇用の対立や、物質のマルクス的だけじゃないから、わかりづらいかもしれない。

 そんな風に考えるのは駄目だと刷り込まれるらしけど、そんなものは私の場合は歩いて稼ぎ、雨に濡れて捨てざるおえなかったのだ。

 "どっかの帝国がどかどかと入って居座り、ぶっ壊し封じたそうな、解らんように"

 この日本列島の独特の気候にでさえ、あわんと思った私がいる。
 深い侮辱をメディアという悪魔は垂れ流して溢れさせている。社会という壺、タコのように忖度と空気で縦横に目がスクロール、ニタニタじっと壺に入ってでてこない。
 病は凄まじく進行しているが、馬鹿を演じる事で、麻薬のように麻痺できる、らしい。

 "そんな日本人にウンザリした"
 三島由紀夫のように…。

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