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【短編小説】君の意味

君の意味

君は夜の宇宙船に乗っていた。目の前にはもうすぐ散ってしまいそうな星たちが瞬いていて、君はいつか地上で見たことのある花びらの雨を思い出した。真っ黒でひっそりとした空間にさらさらと星の花びらが散らばっていた。ここですれ違うともう二度と会うことはできないと、星たちも君も分かっていた。

なぜここにいるのだろう、君は思った。音も追憶もない世界に、一人でぽつんと。なぜ君だけがここにいるのだろう、君は思い続けたけど、消された記憶は君に何の答えもしてくれなかった。

何かヒントがほしい。

君は周りを見回した。丸くて小さな夜の宇宙船。そこには窓が一つあるだけで、ヒントになりそうなものは何一つなかった。シンプルな、すごくシンプルな世界。君は窓を見つめた。そして、その子を見た。

窓に映っているその子は、そう、子供だった。小さくて、弱くて、細い。
おかしいな、と君は思った。

搭乗した時のデータによれば、地上を離れた時は地球の歳で101歳。ぼんやりと皺の刻まれた手を思い出した。最後に手を繋いだのは誰の手だったんだろう。思い出せないけれど、大事な人だったに違いない。なぜなら、その手はとても暖かくて、絡んでいた指から離れたくない気持ちが伝わってきたからだ。

君は、誰かが握っていた君の左手を右手でそっと握ってみた。重なった手のひらに、ある感覚が横切った。記憶は消えても、記憶の感触は消えないものだろうか。胸がぎゅっと痛くなって、君は思わず胸に手を当てた。胸の中に花のように痛みが咲く。あの人は誰なんだろう。今、どうしているんだろう。この真っ黒な宇宙で唯一輝くもの、そうだ、あの星たちを贈ってあげよう。名前を忘れてしまったあの人に。きっと大事な、あの人に。

君は手を伸ばした。宇宙船の窓を開けなくちゃ。

しかし、窓は開かなかった。そもそも君の窓には鍵も取っ手もついていなかった。夜の宇宙船はただ黙って前に前に進むだけ。

ひっそりとした空間の中、窓がきらっと輝いた。それがきらきら光る涙だと気づくのにはそんなに時間がかからなかった。窓の中の子供が泣いていた。きらきら泣いていた。すすり泣く声だけが、静かな夜の宇宙の唯一の音になって、歌のように宇宙を飛んでいった。

しばらくすると、その歌も止まり、きらめきも止まって、その子は眠りについた。眠っている君のまぶたの上に残っていた一滴の涙が、最後の光をきらっと流して暗い夜の中へ消えていった。

真っ黒な夜を飛んでいく宇宙船が一つ。それだけが君の世界で唯一動いている全てのもの。君は夜の宇宙船に乗せられ、どこへ向かうのかも知らず、果てしなく飛んでいった。果てしなく遠い旅に。忘れてしまったあの名前を探して。

*

朝、目が覚めると、布団の中のぽっかり空いた隣に冷たい空気が入り込んでくる。彼女がいなくなってどれくらいの時間が経っているのだろう。最近いつもより朦朧としている記憶を掴んで布団から出る。掛け布団を肩に掛けたまま立ち上がって、カレンダーをめくる。いつの間にか一年が過ぎている。春がやってくるこの時期なのに、いるはずの人がいない空間はこんなに冷たいのだ。どっこいしょと、向きを変えて(最近は何かをするたびにどっこいしょと声が出てしまって、孫娘にからかわれる)、庭に面した障子を開け、台所に行ってお湯を沸かす。

春の香りがするお茶をすすりながら名前を考える。癖のように二杯分のお茶を入れることももうなくて、なんだか寂しい。テーブルの僕が使っている右側だけが一年分歳をとった気がする。いつか小さなテーブルのこの右側の席も空くのだろう。彼女がいなくなって空席になった左側の席のように。また始まりのように。テーブルの上を照らしている灯だけが、僕たちの時間を覚えていてくれるのだろうか。そのうちにそれも薄れていくのだろうか。

名前に戻ってくる。生まれたばかりの孫娘の赤ちゃんの名前を考えている。けれど、どうしても思い浮かばず、あるイメージだけが頭の中をぐるぐる回るだけだ。

お爺ちゃん、お姫様だよ!

お茶の中に、明け方入ってきた孫娘の嬉しそうな声が響く。見えないのに、早く来てと促す孫娘の姿がありありと目に見えるようで、どっこいしょと立ち上がる。障子の隙間から差し込んでくる日差しが、早く早くと背中を押す。歳をとると、全てが遅くなる。記憶が刻まれた皺を巡ってくるのに時間がかかるのかも知れない。その感覚も悪くない。

出かける準備をして鏡の前に立つ。今日みたいな日はネクタイがよいのか、それとも普段着でよいのか、首をかしげる僕だけど、その質問に答えてくれる彼女はここにはもういない。一人で悩んだあげく蝶ネクタイを選ぶ。今日はお祭りですから。すごく似合いますよ、あなた。彼女の声が聞こえる気がする。

そうだろう?お祭りだからな。

独り言を言って、蝶ネクタイを締め直す皺だらけの僕の顔が笑っている。鏡の中で。ちょうど、ひらひら花びらの雨が降り出す。鏡の中で。

どっこいしょと、障子を開けて庭に降り立つ。木は歳をとってもどっこいしょと声を出さない。一抱えの花が咲いている庭の木々がゆらゆら風に合わせて背伸びをする。花びらが音符のように僕を回る。一つの花びらが胸に飛んでくる。きらっと。

一緒に行こうか。

僕は花びらに声をかける。左胸に張り付いている花びらが子供のように笑う。そうね、今日みたいな日は一緒に行かなくちゃ。

来てくれてありがとう。

僕は庭を歩いていく。彼女と一緒に。どっこいしょ。一緒に歩いていく僕たちの頭の上に、宇宙から降りてきた流星雨のように、青い花びらの雨が降り注ぐ。


201504

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