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【短編小説シリーズ】セラセラハウス 103号室:BREEZE * FREEZE

103号室
BREEZE * FREEZE

あの人から電話がかかってきた。電話というより、メッセンジャーからの通話だった。そういえば、未だに彼の電話番号も知らない。大塚有海は今更そのことに気が付いた。

『何してるの?』

ちょうど帰宅して玄関のドアを閉めるところだった。入って右側にある姿見鏡の中に映っている有海は濡れていた。冬の雨は寂しい。心の中で独り言を言いながら、今日は初雪が降ると、声を弾ませて天気予報を伝えていたお天気お姉さんの言葉を思い出した。コートから雨粒がぱらぱらと落ちてくる。今日初雪が降ったら、有海の方から先に彼に連絡したかも知れないのに。

彼の声が目には見えない電波に乗って届いてきた。都心の空を飛んで、有海の家の玄関に届いた彼の声。なんか胸がいっぱいになる。

「今帰ってきた」

わざと乗り気じゃないふりをして淡々と答えた。彼の方から全然連絡がこなかったので、久しぶりに彼の声を聞けるのが嬉しくて、なぜかその気持ちを彼にばれるのが恥ずかしかったからだ。

『今日出勤だったんだ。遅いね』
「雨だから余計に。雪待ってたのにね」

有海は寒さで赤くなった耳と肩の間にスマホを挟んで、うんうんとブーツを抜き始めた。電話に出る時の仕草も合わせて乗り気じゃないふりをした方が、勝手に先を走っていく自分の気持ちを引き留められそうで。

『この前買ったスニーカーなんだけど、やっぱり気に入らないよ』

彼は何気なく話していたが、有海は急に悲しくなった。

あの日、彼と有海は初めて二人きりで会った。デートと呼んでもいいものだろうか。「初デートだ!」と思って内心ドキドキしながらも、長い間知り合いのままでいた彼といきなり二人きりで会うのがぎこちなかったのか、他人と一緒にショッピングすることに慣れていないからか、有海は凍り付いて、色んなスニーカーを履いたり抜いたりする彼の側にただ黙って立っていた。こんな時は何か選んであげたりするんだっけと思いながら。

今年に入ってリモートワークに切り替えているものの、有海の部署はまだまだ出勤を求められる日が多かった。同期の彼は、本社からカーブアウトで設立されたベンチャー企業に移動していて、会社ですれ違う機会すらなくなったのが2年前のことだった。経営企画室からの指示で、完全リモートワークに移行している彼の会社をインタビューすることになって、オンラインミーティングに現れたのがまさかの彼だった。有海は驚いた。そして、ドキドキした。

スニーカーを買った後、近くのハンバーグ屋に入った。新宿の繁華街の地下1階にあるその店は、昭和の洋食屋を思い出させるレトロな雰囲気だった。どこか噓っぽい今時のお洒落なレトロ風ではなく、本当に長い歳月を経過してきた本物だった。決してきれいだとは言えないが、テーブルや柱に刻まれている無数の傷は老人の皺のように深みがあった。テーブルを挟んで向かい合って、ハンバーグ定食を食べた。話したいことが溢れ出して、何から話せばいいか分からなくて、有海は岩石に変身したかのように固まっていた。居心地悪い。けど、幸せ。彼と一緒に食べるご飯って、こんな感じなんだと、有海はひそかに微笑んでいた。彼を戸惑わせないように、自然さを装って。

『買わなければよかった』

後悔する彼の声が、再び都心の空を飛んで、有海の玄関に届いた。やっと抜いた左足のブーツを横に置いて、壁にもたれた。冷たく冷えたタイルの感触が左足の裏から伝って登り、有海の胸の辺りまで染み込んできた。

「気に入るって言ったじゃない」

有海の躊躇う声が玄関に留まっている。玄関のセンサーライトが消えた。

『帰ってまた履いてみたら、なんか違う気がした』

暗闇の中で、彼の声がきっぱりと響き渡った。

「あの日も何回も履いてみたはずよ」

いつの間にか意地を張るような答えをしている有海がいた。彼はただスニーカーの話をしているだけなのに、有海はなぜか胸が痛かった。彼の話が、私たちにこれ以上のデートはないよと言っているように聞こえたから。

あの日の君は誰より眩しくて、輝かしく見えたけど、改めて見てみたら違う気がした。全然輝いていない。心地悪い。

電話が雨に濡れたのか。電話の向こうから流れてくる彼の言葉は、有海にそのように通訳されて転送された。今じゃなくても、いつかはそうなる気がして、確信のない気持ちは不安を生み、不安はまだ恋と呼ぶには微妙な感情を縮こまらせ、手を差し伸べることをできなくする。彼と有海の間に、まだ恋の物語は始まっていないから。

有海はスニーカー以下の存在になるかも知れない。履き心地の悪いスニーカーさえ、下駄箱に保管され、たまには彼のお出かけに同伴するものになるだろう。でも、有海は保管もされず、同伴もされず、このまま消える存在になるかも知れない。始まっていない恋というものは。

有海は彼に「すぐ慣れるよ」と言わなかった。彼とはたった一回会っただけだから。

電話を切ると、玄関のセンサーライトが付いた。鏡の中の有海の頭の上にぽたぽたと青白い水玉が付いている。冷凍庫から取り出したインスタント食品のように。頭を振ってみるが、飛ばされるのは解凍された雨粒だけで、青白い顔はそのまま残っている。青い頬っぺた、赤い目。片足は冷たい玄関フロアに、片足はふわふわしたブーツの中に。違う場所に立っている有海の両足。恋はBREEZE?FREEZE?


― 雪を待ちわびる103号室 ―

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