止まない雨はない、でもまた雨は降る
9
「あ、忘れてきちゃった」
そんな声が隣から聞こえてきた。
席替えをして新しい席に変わってから四日目。声の主は私の隣の席の川口さんだった。おそらく、心の声が実際に声となって出てきてしまったのだろう。かなりか細い、そして若干かすれた声だった。
「どうしたの?」
聞こえてしまったことには嘘をつけなかった。
「筆箱、家に忘れてきちゃった」
朝のホームルームが終わって、一時間目の授業が始まろうとしていた。
「じゃあ、今日一日これ貸してあげるよ」
私は自分の筆箱の中から、一本の鉛筆と、何故か二つあった消しゴムの綺麗な方を差し出した。
「ありがとう、助かる。じゃあ今日、一日借りるね」
川口さんは私の手から丁寧に鉛筆と消しゴムを受け取った。
「あ、赤いボールペンも貸してあげるべきだったかな」
心の中でそう思ったが、もう声を掛けることができなかった。
立場的に私の方が物を貸してあげる方であり、特段気を使わなくてもいいはずだった。もっと気を利かせて、あれも貸してあげるべきだったかな、などと、後悔にも似たこの感情を味合わなければならないのはなぜだろう?
「赤いボールペンも必要?」
「赤いボールペンが必要だったら言ってね」
その言葉を言うタイミングを一度逃してしまうと、なかなか言い出せなかった。
いつ授業中に自分で採点をしなければいけない場面が訪れるか内心ドキドキしていた。多分そんな場面が訪れた時私は、かなり食い気味なテンポで「赤いボールペン必要?」と声をかけたことだろう。目覚まし時計が鳴る前に目を覚ましてしまった時のような、目を瞑っているのだけど、どこか目覚まし時計が鳴り出すのを待ってしまっているような。そのことばかりが気になってしまってそれ以降全く眠れなくなってしまうような。結局、目覚まし時計が鳴り出す一分前に止めてしまうような。そんなハラハラ感。誰か理解できるだろうか?
結局その日は自分で採点するような場面は訪れなかった。
帰りのホームルームが終わり、後ろにある自分のロッカーからランドセルと体操服を取り出している隙に、川口さんは帰ってしまった。おそらく川口さん以上に川口さんに鉛筆と消しゴムを貸したことを意識していた私は、鉛筆と消しゴムを返されることなくいなくなってしまったことに少し動揺した。ランドセルの中に教科書と少し強引に体操服を押し入れながら朝、川口さんに鉛筆を貸したシーンを思い返していた。
「あげたんじゃない、貸したんだよな」
朝の出来事がどこか遠い昔の出来事のような、そんな錯覚を感じながら家へと帰った。
「おはよう、昨日はありがとう」
次の日、教室の自分の席に座ると、川口さんが鉛筆と消しゴムを返してきた。
鉛筆は昨日、自分が貸した時よりも先端が尖っていた。
消しゴムも自分が貸した時よりも、どことなく綺麗だった。
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