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止まない雨はない、でもまた雨は降る

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 ある日の土曜日、私は一人で電車に乗った。その日は三連休の初日ということもあって、電車内はかなり混雑していた。つり革に手をかけて一定のリズムで走り続ける電車に身を委ねていた。もう背伸びをしなくても吊革を掴むことができていた。

 「シャカ、シャカ、シャカ」

 一定のリズムを刻んでいた電車の音に似つかわしくない音が聞こえた。辺りを見回してみる。すると私から五メートルほど先に茶色く、くすんだ色をしたティンバーランドの靴が見えた。私は一瞬でこの音の主だと断定した。

 その二足のティンバーランドの靴はいかにも他人の目なんて気にしない。そんな出立だった。なんだかあの空間だけが空いているようにも見えた。

 徐々に減速していった電車はある駅に停車した。空気の入った風船に穴が空きそこから空気が漏れ出す時のように、ねっとりと人が電車から降りていった。車内は先ほどよりも若干空いていた。視線を左にずらすと、くすんだティンバーランドはまだそこにあった。さっきと違ってティンバーランドの持ち主まではっきりと見ることができた。

 ティンバーランドを履いていた男は自分の後頭部を窓ガラスにべったりと付け、目を瞑っていた。両耳にはイヤフォンをつけている。どうやら「シャカ、シャカ、シャカ」と言う音はこの男のイヤフォンから漏れている音のようだった。なんの曲が流れているのかわからないこの耳障りな音。いっそのこと、スピーカーで流してもらったほうがまだ気持ちがいい。

 電車は次の駅に停まった。この駅では降りる人よりも乗ってくる人の方が多かった。すると少してこずりながら、乳母車を引いた若い女性が乗ってきた。乳母車には小さな入れ物や小さな手提げ鞄がいくつも吊るされていた。そのすべてに、子供を育てるために必要な道具が仕舞われているのだろう。

 車内は人が混み合い少し蒸し暑かった。そのことが作用してなのかはわからないが、すやすやと眠っていた赤ちゃんが起き出した。

 赤ちゃんは自分のすべての感情を泣くと言う方法で伝えてくる。一気に車内は一人の赤ちゃんによって支配されていく。私の前に立っていたサラリーマンは明らかに顔をしかめた。私の左耳には依然としてティンバーランドからの音漏れが聞こえ続けている。私と同じタイミングで電車に乗り合わせたこのサラリーマンの耳にも聞こえていたはずだ。

 「さっきまでそんな顔してなかったくせに」

私は口に出した。ささやき程度のボリュームで。私の声は、待っていましたと言わんばかりに赤ちゃんの声にかき消された。

 本当は次の駅で降りる予定だった。しかし、私は降りることができなかった。申し訳なさそうな表情をしながら懸命に赤ちゃんをあやすあの女性を残したまま過ぎ去ることができなかったのだ。その場にいても何もできなかった。でも、この空間を共有することであの女性の心の痛みを吸収できるのではと思った。

 「痛いの、痛いの、こっちへこい」

ポケットに突っ込んでいた左手にじわりと汗をかいていた。

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