日曜日のミルクティー(エッセイ)

最近体の疲れが抜けない。まだそんなに歳でもないのにな、28歳ってそんなものなんだろうか。
疲れが抜けないというか、あるタイミングでどっと疲れる。
会社に行った後とか、好きだったはずの飲み会とか、人がたくさんいるカフェとか。
人と話したり癒されに行ったのに、明るくお酒を飲んではしゃいだ後に、みんなと別れた後にどっと疲れている。
ニコニコ笑って手を振って別れた後に、帰りの電車で泣くこともある。
他の乗客の人からは頭がおかしい人だと思われているかもしれない。いいや、他の人は私なんかに興味なんかないだろう。

休みの日は寝ていたら終わってしまう。前日はぐったりと疲れて眠りにつき、起きたらお昼だ。
そこから何をするでもなくダラダラとネットサーフィンをする。
でも元々の性分は1日に一回は外出しないとなんだか1日を無駄にした気分になる性格だ。
なんとか起き上がり、平日にできなかった部屋を片付け、着替え、化粧をする。どこかすごく行きたいわけじゃないけど、何となく行きたい気がする場所へだ。
(だいたい行き先は先ほどのネットサーフィンによるマーケティング広告の餌食になっているのだろう)
でも最近は支度をしたところでもうぐったり疲れている。
今日はどこか居心地のいいカフェにでも行って、なんだかわからないけど抱えている不安を解消するために転職先を探したり、家計簿や投資の勉強をしたり、昨日テレビで見た映画の作者の推理小説を読んでみるはずだった。
せっかく支度をしたけどもう一度ベッドでネットサーフィンを開始する。ダラダラと時が過ぎ、気づいたら夕方だ。
最近はめっきり日が落ちるのが早い。肌寒い気配がする中に秋の物悲しさが入っていて、もう十分すぎるほど憂鬱なのに、寂しさまで抱かせてくる。
急に焦りを覚えて当初の計画通りカフェへ出発する。
家の近所のカフェへなんとか辿りついたが満員で、1人で並ぶ勇気もなく、近場をフラフラ歩いて時間を潰す。
東京はどこも人でいっぱいだ。そしてどこへ行っても金を使わせようとする。
働いても働いても生きてるだけで出て行く金のために、
やりたくもない仕事をやり過ごして、にっこり笑って元気なふりをして。
そして、心がゆっくり死んで行く。
自分はどうやって生きて生きたいのか、本当は何がしたいのか。
日々にぐったりと疲れていて、自分がどうしたいのかもわからない。
なんとか時間を潰したら先ほどのカフェに空きができていて、やっと座れる。

疲れているのに眠れないから、コーヒーを飲むともっと眠れなくなる気がして、
ミルクティーを頼むことにする。
ティーポットがついてるから2杯分でお得!カフェイン量はそんなに減らないけどさ。
周りを見渡すとパソコンを開いている人も多い。
私には到底作れなさそうな難しい資料をパワポ作っていたり、プログラミングらしきものをしたり
難易度の高い英語の勉強をしている人もいる。
自分は何をしているのだろう。もっと生産的に生きれないものか。昔はどちらかといえば優秀な方だったのに。
気づくと自分で自分を責めている。休みの日に癒されにカフェにきたはずなのに、自分を苦しめているのは自分なのだ。

考え事をしているとミルクティーが到着する。
店員さんが運んできたのは、砂時計で時間を図ってティーポットからカップに自分で注ぐタイプの由緒正しきミルクティーだ。
砂時計が落ち切るのを待って、ゆっくりとカップへ淡い茶色の液体を注ぐ。
なんだかいい香りがする。口に含むとさらに香りが鼻に抜ける。
ミルクのまったりとした舌触りと香る紅茶のあたたかさ。
雑然とした店内で、生産的に生きるその他の皆さんと、開いたっきり何もしてないパソコンを前にして座る、疲れ切ったわたし。
そんな私に少しだけ外界とのつながりをくれる、あたたかい紅茶。
どうやって生きて行ったらいいのかもわからないし、考える気力もない。

きっと、自分がそう思いたいだけなんだけど。
でも生きていても、まだ当面はいいよって、少しは許してくれていそうな気がした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?