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【昭和の思い出セレクション】お色気アクションドラマ『プレイガール』

 子どもの頃、我が家にはタブーがなかった。
 どの家でもたいがい、子どもが見ることを禁止されているテレビ番組があるもので、ザ・ドリフターズの『8時だョ!全員集合』などはその代表例といえるだろう。テレビの倫理規定がゆるかった当時は、下品な番組、低俗な番組、お色気番組がゴロゴロあって、一般的な家庭では、そういう番組は子どもに見せてはいけないことになっていた。 
 ところが、我が家には見てはいけないテレビ番組というものがなかった。自由主義とか放任主義といったような信条とかポリシーなどというものでは微塵もなく、お恥ずかしい話だが、子どもに見せてはいけないという概念が、うちの親にはなかったのではないかと思う。だから、幼稚園に通っていた私も『プレイガール』というアクションドラマを父といっしょに見ていた。

12チャンネルで放映されていたテレビドラマ『プレイガール』

国際秘密保険調査員の活躍

 『プレイガール』は1969年(昭和44年)から1976年(昭和51年)まで東京12チャンネル(現 テレビ東京)で毎週月曜日の夜9時から放映されたテレビドラマだ。国際秘密保険調査員という肩書きの女性たちが保険金に絡む事件の調査を行い、真実を暴き出す、いうなれば探偵アクションものだ。今にして考えれば、アメリカのテレビドラマ『チャーリーズ・エンジェル』と設定が近いのだが、『チャーリーズ・エンジェル』の放送が1976年(昭和51年)からなので、『プレイガール』の方が老舗女性アクションドラマということになるわけだ。
 この『プレイガール』、なにがすごいって、そんじょそこらの探偵ドラマ、アクションドラマとはレベルの違う俗っぽさなのだ。毎回女性陣は悪人グループを蹴り倒してやっつけるのだが、当時はミニスカートが大流行で、繰り上げるたびにパンティーがチラリと見えるのだ。たまにヌードシーンもあったりして、もう完全にお色気アクション番組だった。

音楽は「ルパン三世」を担当した山下 毅雄。
モダンジャズのムードを漂わせるテーマソングがスタイリッシュさを際立たせていた。

知力と体力と美貌を武器にして事件を解決

 父は、このパンチラシーンが楽しみで仕方なかったようで、蹴り上げが炸裂するたびに「見えた、見えた」と大はしゃぎしていた。
 のちに続く『ハレンチ学園』といったハレンチドラマの先駆けといっても過言ではないこの『プレーガール』だが、幼稚園時代からスタートして小学生低学年まで続いたこの長寿番組を、私はある種の憧憬をもって見ていた。
 沢たまき扮する通称「オネエ」と呼ばれるボス的存在の女性を中心に、『サインはV』の范文雀、『旅がらすくれないお仙』でも人気を得た大信田礼子、『ウルトラセブン』のアンヌ隊員でお馴染みのひし美ゆり子といった美人で、おしゃれで、個性的な女性メンバーが、男性に頼らずに、知力と体力と美貌を武器にして国際的な難事件を解決する。ピンチにも巻き込まれるが、毎度自らの才覚や仲間の助けによって現状を打破するのだ。

ボス的な存在の沢たまき扮する「オネエ」を中心に、個性豊かなメンバーが周りを固めていた

働く女性のカッコよさを見た

 当時、女性は会社ではお茶汲みで、寿退社をして専業主婦になるのが当たり前の時代だ。パンツが見えた見えないで一喜一憂している父の傍で、私は女性が仕事を持ち、働き、自分の力で生きて行くことのかっこよさを感じていた。
 テレビ番組にタブーがなかったので、母が好んで見ていたメロドラマも当然のように見ていた。メロドラマのヒロインは、惚れた腫れたてなことだけに時間を費やして、常に悩み、苦悩していた。それに比べてプレイガールのメンバーたちのスカッとした生き様は、子どもの私の目には鮮烈なまでに愉快爽快に映った。あれから45年以上が過ぎ、50代になった私はいまだに好き好んで仕事をしている。もちろん、セクシーさやかっこよさは皆無で、プレイガールたちの足元にも及ばないけれども、働くことをずっと続けてきた。『プレイガール』の番組が、少なからず影響していることは間違いない。

タイトルロゴは集英社の雑誌「週刊プレイボーイ」からきている


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