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【昭和の思い出セレクション】ベイ・シティ・ローラーズ 〜愛と熱狂のタータン・ハリケーン〜 

 人には誰しも恥ずかしい過去があるのではないだろうか。蒸し返されると、赤面してその場から走り去ってしまいたくなるような忸怩たる思い出。私でいえば、それは小学校時代の「ベイ・シティ・ローラーズ」と「ベルサイユのばら」だ。あまりにも夢中になりすぎて、周りが目に入らず、痛いことになってしまっていた。

エディンバラの貴公子

 ベイ・シティ・ローラーズ(Bay City Rollers)は、イギリス・スコットランドのエディンバラで生まれたロック・バンドデ、イギリスでは1974年頃に人気に火がついた。S-A-T-U-R-D-A-Y Nightのイントロでお馴染みの「サタデー・ナイト」、I only want to be with youのサビが印象的な「二人だけのデート」などのヒット曲がある。日本でも1975年に突如大ブレイクし、全国の女の子が熱狂した。スコットランド発祥のタータンチェックのファッションを身につけていることから、そのブームはタータン・ハリケーンとも呼ばれ、コンサートではイギリスやアメリカ、もちろん日本でも失神者続出。「第二のビートルズ」とも呼ばれていた。​

アランがいた頃、初期のメンバーのベイ・シティ・ローラーズ、略してBCR。

 私がベイ・シティ・ローラーズを知ったのは、ジャニーズ事務所所属の3人組アイドルグループ「ジャニーズ・ジュニア・スペシャル(略してJJS)」のマーちゃんこと林正明に熱をあげていた小学校高学年の時だ。マーちゃんは、女の子のように華奢でナヨナヨしているところが私のお気に入りであった。1976年、JJSは、その前年にヒットしたベイ・シティ・ローラーズの「サタデー・ナイト」の日本語カバーをリリースした。その頃すでにベイ・シティ・ローラーズ旋風が吹き荒れていたのだが、私はその流れよりやや遅れて、JJSがカバーした段階で原曲を歌っていたベイ・シティ・ローラーズの存在を知った。そしてJJS目当てで毎月購入していた集英社の芸能情報雑誌「月刊 明星」の付録のポスターで初めてベイ・シティ・ローラーズを見た。「ふーん、この人たちがサタデー・ナイトを歌っているのか」という軽い気持ちで折り畳まれたポスターを開いたのだが、その瞬間に5人の中の一人に釘付けになってしまった。それが、レスリー・マッコーエンだった。大人になった今にして思えば、レスリーは確かに女の子好みの甘いマスクをしている。だが、たかだか小学生の私は、なぜポスターを見ただけでこんなにも胸が締め付けられるようになったり、あるいは幸せな気持ちになるのか訳が分からなかった。それは、JJSのマーちゃんにはない男の色気のようなものでもあったのだろう。口角の左右が少しアンバランスになるレスリーの微笑みを見ていると、体が溶けてバターになってしまうのではないかと思われた。私はそのポスターを天井に貼って、布団の中からレスリーを見つめながら眠り、目が覚めるとまっ先にレスリーに「おはよう」と挨拶をしてからから起きた。

寝ても覚めてもローラーズ

その話をクラスのなかで、おませナンバーワンの「オトトちゃん」というあだ名の女の子に話したら「リエブー遅れてる。私、ずいぶん前からファンだよ。LP聞きにうちに来る?」と誘ってくれた。そして、オトトちゃんの部屋で、グループや曲についての解説をしてもらいながらヒット曲の数々を聞いた。ベイ・シティ・ローラーズの曲はメロディアスで覚えやすいのがポイント。しかも、リードボーカルのレスリーの歌声はルックスと同様に女子を虜にする不思議な甘さを帯びていて、これまたハートを射抜かれた。私は、家に帰るやいなや、親にお小遣いをねだって、駅前のレコード屋へと走った。
 それからは毎日、自宅にいる時は団地中に響きわたるくらいの大音量でLPを聴き、小学校には「月間 明星」を持って行って休み時間も給食の時間も放課後も、オトトちゃんとベイ・シティ・ローラーズについて語り合った。先生に「明星」が見つかると没収なのだが、何度没収されてもへっちゃらだった。

 フィルムコンサートにもよく足を運んだ。DVDやYouTubeはもとよりビデオもない当時は、百貨店の催事場などでロックバンドのコンサートの様子を収めたフィルムを上映するイベントが行われていた。平日に開催されることもよくあり、オトトちゃんと私は、フィルムコンサートがあるという情報を聞きつけては、朝、学校に行かずに、駅で待ち合わせをして、新京成電鉄と国鉄を乗り継いで、船橋西武百貨店で行われたフィルムコンサートに出かけた。ただの映像といえども、会場の女の子たちは、スクリーンに向かってキャーキャー絶叫した。黄色い歓声とはよくいったもので、とにかく訳もわからず甲高い叫び声が出てしまう。あれは一体どういった生理現象なのだろうか。テレビの洋楽カウントダウン番組などを見ていて、ベイ・シティ・ローラーズが出ようものならブラウン管に向かって「キャー」と悲鳴にも似た大声で叫び、その度に親に「うるさいね」「近所迷惑だよ」「バカじゃないの」と怒鳴られていた。

アランが脱退し、イアン・ミッチェルが加入した頃に、BCRは全盛期を迎えた。

来日公演の思い出

 初来日の日本武道館公演の、あれはチケット発売日だったのだろうか、それとも予約開始日だったのだろうか、それもやはり平日で、朝からオトトちゃんとチケット販売窓口に行ったのを覚えている。
「今日はどうしましたか?」と担任から家に電話が入り、母が「学校に行きましたけど」と答えて、ことの次第が露呈して、親と担任にこっぴどく怒られたことも今となっては懐かしい。

 念願の日本武道館の初来日公演が間近に迫り、コンサートに着て行く服として、「明星」に載っていた通信販売で、ジャケットとワイドパンツのセットアップを購入した。白色の上着の襟と袖口、同じく白色のパンツの裾とポケットにタータンチェックが施されているもので、レスリーがLPのジャケットで着ていたのとほぼ同じデザインだ。私はそのジャケットの背中部分にスパンコールでLeslie Loveと刺繍を施すことにした。  
 ところが、服が届いてからすぐに開始したものの、スパンコールを1枚1枚ビーズで縫い付けていく作業に手間取り、一向に完成しないままコンサート前日を迎えてしまった。夜になってもLeslieのiまでしか縫えず、それでも必死になって刺繍をしていたら、いつもはベイ・シティ・ローラーズのことでお小言ばかりの母が「やっておくから寝なよ」と言ってくれた。本当にやってくれるのだろうかという不安と、スパンコールで英語を完成させるという作業が果たして母にできるのだろうかという疑問はあったが、翌朝起きてみると驚くことに「Leslie Love」は完成していた。私の頭の中では、ダークダックスが歌う「かあさんの歌」〜母さんが夜なべをして手袋あんでくれた〜が鳴り響いた。

 コンサートは平日の夕方開場で、6時間目が終わって、掃除をして、帰りの会が終わってから武道館に向かうと間に合わない。私とオトトちゃんは、親に泣いてすがって書いてもらった「家の事情で本日は早退させてください」の手紙を担任に提出して、5時間目で学校を早退した。千葉県から日本武道館のコンサートに行くとなると、帰りは11時を過ぎる。「二人で大丈夫」と言い張った私とオトトちゃんであったが、私の父が会社の休みをとって無理矢理付き添いを買って出た。九段会館で私たちに早めの夕食を食べさせて、武道館に入るのを見送ってから、コンサートが終わるまでどこかで時間を潰して、コンサートが終わると出口で待っていてくれた。45年後の後日談になるが、一昨年母が亡くなった時も、そして昨年父が亡くなった時も、私が真っ先に思い出したのはベイ・シティ・ローラーズにまつわるそんな出来事だった。

 その頃、クラスの洋楽好きの男子はクイーンやキッスに傾倒していた。悔しいかな、ベイ・シティ・ローラーズはアイドルロックで、クイーンやキッスファンからは音楽性において一段下、いや足元にも及ばないくらいに見られていた。それでもオトトちゃんと私はベイ・シティ・ローラーズ一筋。彼らは3回来日公演を行い、私は3回ともオトトちゃんと足を運んだ。

レスリー

ブームの終焉は突然に

 ところがなぜだろう。1978年以降のベイ・シティ・ローラーズの記憶がない。中学生になった私は、憑き物が落ちるようにベイ・シティ・ローラーズのことを忘れていった。オトトちゃんとクラスが別々になり廊下ですれ違っても話さない間柄になったこともあるだろうし、中学校の先輩とかクラスメイトとかリアルな男子が憧れの対象になったというのも少なくない。後で知ったのだが、実際にその頃ベイ・シティ・ローラーズも過渡期にあったようで、アイドルロック路線から、1977年に発売されたアルバム『恋のゲーム( It's a Game)』 で急に音楽性を追求しだしたりして、路線転換について行けなくなったファンは多かったようだ。また、その頃メンバー間に確執が生まれ、空中分解のような形になっていたらしい。そんなこんなでマイブームは一気に去り、それが“忘れていった”のか“封印した”のかわからないが、とにもかくにもベイ・シティ・ローラーズの歌を聞くことも、写真も見ることもしなくなった。

諦めなければ形を変えて夢は叶う

 再びベイ・シティ・ローラーズを思い出したのは、今から10年ほど前、つまりあれから30年以上経ってからのこと。何を検索していたのか忘れたが、インターネットを見ていたら、テレビ東京の「youは何しに日本へ?」という番組に、以前レスリーが登場したという情報を目にしたのだ。成田空港で到着ロビーにいた外国人男性に「youは何しに?」と尋ねたら、横にいた日本人女性に「あなた、この人のこと知らないでインタビューしているの?調べてから来なさいよ」と叱られたという内容だった。その男性はレスリーで、横にいた日本人女性はレスリーの奥様だったという。私を驚かせたのは、レスリーが日本人女性と結婚していたことだ。咄嗟に思ったのは、その女性がベイ・シティ・ローラーズ全盛の頃からレスリーのファンで、小学生時代の私のように「将来絶対レスリーと結婚する!」と誓って、英語を一生懸命勉強して、お金を貯めてイギリスに渡って、夢を叶えたに違いないということ。夢は諦めなければ形を多少変えて叶えることができる。これは私にとってコペルニクス的価値観の変換だった。

 とはいえ「youは何しに日本へ?」の一件でふと思い出したものの、改めて曲を聞き直してみるというようなことはせず、また数年が過ぎた。しかし、2019年9月に事態は動いた。夫の大学時代の友人が兵庫県から上京して、我が家に一泊することになり、外食をした後でカラオケに行った。彼は太田裕美の「木綿のハンカチーフ」を歌った後で、太田裕美は小学生の頃に初めて好きになったアイドルだったとポツリと言った。そして「リエブーさんは誰が好きだったんですか?」と聞いてきたので、「そういえば、ベイ・シティ・ローラーズかなぁ」と答えたら、「あれ、その人たち、来年日本に来るんじゃなかったかな。ライブ情報のサイトで見た気がする」と教えてくれて、選曲を中断してスマホでチェックしてくれたのだ。「ほら、これ」と言われて画面を見ると、2020年2月にライブが予定されている。よく見ると「レスリーとベイ・シティ・ローラース」になっていて、オリジナルメンバーではないこともわかった。そこがネックになって「絶対行こう」というまでの気持ちにはならなかったが、それでもなんとなく懐かしく思って、帰宅してからネットでチケットを購入した。

2020年2月のライブ

 2020年2月に渋谷丸山町のライブハウスで「レスリーとベイ・シティ・ローラーズ」のライブは行われた。「オリジナルメンバーでの再結成、来日コンサートなら東京ドームか武道館でできたんじゃないかしらね?」と会場で隣にいた人たちが話していた。

 世の中では、2019年年末から中国の武漢でコロナウイルスと呼ばれる謎のウイルスが流行りだし大きなニュースになっていた。ライブがあったのは2月11日。外出自粛の要請や、ライブハウスでクラスターが発生しやすいという情報が出るほんのわずか手前で、あれがもし1週間後であればライブは中止になっていただろう。まさにギリギリセーフなタイミングだった。

 迂闊なことに最初の曲を忘れてしまったのだが、一曲目のイントロが流れてきて、恰幅のいいおじさんになってはいても往年の面影を若干残すレスリーがステージの右手から出てきた瞬間、会場中が「キャー」「レスリー」という黄色い絶叫に包まれた。もちろん私も手を伸ばして「キャー」である。わけもわからず、理由もへったくれもなく「キャー」なのだ。そしてふと頭をよぎったのは、「くだらなかったけど、面白かった小学生時代だったな」ということ。ベイ・シティ・ローラーズとベルばらにハマって勉強もスポーツもせずオタクまっしぐらだった小学生時代をそう肯定すると、クラスメイトに片思いをして大騒ぎしただけの高校生時代や、ディスコと合コンとバイトに明け暮れた大学時代、雑誌の「anan」気取りで仕事をしていた社会人になってからの日々、そんなばかばかしい限りのミーハー人生も不思議と愛おしくなってくるではないか。それだけでもライブに来た甲斐があったと、一曲目の最中に涙目になりながら、しみじみと思うのであった。

 その昔、日本武道館でのコンサートでレスリーは「Don't Let The Music Die」をまるまる1曲ファンに合唱させて、自身はステージに寝転がって聞いているということを平気でやったほど演奏に熱心ではなかった。ところがこの日は、全盛期とほぼ変わらぬ歌声と歌い方できっちりと全曲を歌い上げた。ライブハウス2階のスタッフ席を見上げると、奥さんであろう日本人女性が、何かを一生懸命メモしていた。おそらく別の日のライブと内容がかぶらないように、曲目やトーク内容を書き留めていたのではないだろうか。

 甘いマスクの好青年だったレスリーは、気のいいおやじになっていて、途中観客に向かって「何が聴きたい? 一応歌う曲は決めているけど、リクエストがあればそれを歌うよ」なんて英語で言ってくれた。すかさず「バイ・バイ・ベイビー」とステージ前にいた誰かが言うと、レスリーは笑い出して「だめだめ、それはだめなんだ。バイ・バイ・ベイビーはいつだってラストの曲だって決めているからね」と言った。その言葉の通り、アンコールで歌ったラストソングは「バイ・バイ・ベイビー」だった。

 その翌年2021年4月、小学校時代のクラスメイトからLINEで、「リエブーBCR好きだったよね? レスリーが亡くなったって」と連絡があった。当時の絶対的相棒だったオトトちゃんとは音信不通になって久しいが、他のクラスメイトとは細々と繋がっていた。仕事で出先にいた私は、「嘘だ」と短く返信した。その友人はヤフーニュースのスクリーンショットを送ってくれて、私はそれが事実なのだと知った。報道によれば、死因は不明だが、レスリーは長く心の病を抱えていたという。 

タータンハリケーンは永遠に

 私にとってベイ・シティ・ローラーズは、今風に言えば、自分を見失って沼にはまり込んでしまった黒歴史だったが、 2020年のライブで、それは、何かに夢中になってキラキラと眩しく輝いていた過去へと変換された。人生にベイ・シティ・ローラズがあってよかった。アホな人生だけど、それはそれで悪くない。これからだってミーハーで上等じゃんかと腹もくくれた。冴えない人生だったと嘆いていたこれまでが嘘のような、晴天の霹靂の自己肯定ではないか。1970年代のレスリーと、そんなふうに思わせてくれた2020年のレスリーにありがとうと言いたい。そして長くレスリーを支えてくれて、死の前年までコンサートを完遂することができる男にしてくれたレスリーの奥様にも感謝の気持ちでいっぱいだ。レスリーが亡くなってからネットの情報で知ったのだが、奥様はイギリスでバーを経営していた実業家で、バーを訪れたレスリーが一目惚れして結婚するに至ったのだそうだ。私が妄想した「レスリーと結婚したかったロック好きの女の子」は違っていたけれど、私の勝手な妄想のなかで奥様が教えてくれた「諦めないことが大切」という教えは、勉強でも仕事でも趣味でも、すぐに諦めていた私に多少の粘り気を与えてくれた。伝わることはないかもしれないけれど、それでもレスリーと奥様に心からの感謝の言葉をDedicatしたい。
The song will play on endlessly
I hope my dedication's gettin' through
Dedication's playing just for you

「キャー」と絶叫。


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