解放と神学の微風その2 〜ブラジル フォルダレーザ〜


フォルタレーザで日本から来ている友人と会うため、バスに乗りさらに北に向かった。ブラジルの南にあるパラナ州のサン・ジェロニモで、子ども達に別れを告げて教会のプロジェクトを出る直前に連絡をくれた友人だ。ブラジルでさらに北に向かうとは赤道に近づくことで、さらに暑いところに行くと言うことだ。ブラジルの長距離バスは実に長距離で、途中何泊かすることもある。バスで56時間とか丸2日以上かかることもある。そのため道中いろんな事件が起こる。急に恋に落ちてカップルが誕生したりすることもある。
そんなパラナ、サンパウロ、サルバドール、ジョン・ペッソアを経由して行く長旅で、いく組かのカップル誕生を見届けた後、ようやくフォルタレーザに辿り着いた。
フォルタレーザでその友人と再会すると、彼女のブラジルの家族の家でしばらく過ごした。昼は子どもたちの演劇を見に行ったり、夜は、海に伸びた防波堤の端に位置するバーで、波風の音を聞きながらカイピリーニャのグラスを傾けた。彼女の仲間が集まり、フォホというブラジル北部で流行っていた音楽をかけ、夜通し飲みながら踊り明かしたりもした。また日中海岸に出かけエメラルドグリーンの美しい海で泳いだり、眩い太陽に目を細めながら砂浜に寝そべってビールを飲みながら日光浴したりした。そして何日かして、彼女の友人のフランス人女性がブラジルに到着して合流すると、次の日から海洋民族である先住民のトレメンべ族の集落に向かった。ジープで行けるところまで行くと、荷物を背負い、ジープを降りて、歩いて砂漠を抜け、頭に荷物を乗せて川を胸まで浸かりながら渡り、ジャングルを掻き分け、サバンナのブッシュをくぐり、ようやく海洋民族の先住民トレメンべ族の集落に着いた。どこまでも広がる白い砂浜と椰子の木の群れの中に、白い壁に椰子の葉を乗せたトレメンべ族の家が立ち並んでいた。
彼らは、日本企業も含む多国籍企業と、土地を勝手に売り払う大地主達と、その私兵と裏社会のシンジケートと戦っていた。実際には彼らの住んでいたところは椰子のプランテーションとなり、椰子の実からできる油やシャンプー、洗剤等を作る企業にどんどん買収されていた。土地をどんどん奪われて追いやられて行く中で、ある時、強い風が一晩中吹き荒れ、突如として白い砂浜の中から埋もれていた古い教会が現れた。そしてこのことが彼らを力付け、彼らの戦いが始まったのだという。まるで旧約聖書の出エジプト記のような話だ。
旧約聖書の出エジプトについては諸説あるが、イスラエル人がバビロン捕囚の時に編纂されたという。国ができる前にヘブリとかイブリと呼ばれていた遊牧民は、傭兵や季節労働者として、多くは非正規雇用で働いていた。そのうちダビデという羊飼いの少年が、当時最大勢力だったペリシテの巨人ゴリアテをタオルのような石投げ器で倒し王となりイスラエル王国を興した。しかしその後イスラエルは北イスラエルと南ユダに分かれ、オリエント地域を統一したアッシリアのサルゴン2世に北イスラエルは滅ぼされてしまった。そしてそのアッシリアを打ち破った新バビロニア王国のネブカドネザル2世に南ユダも滅ぼされ、南ユダの人々はバビロンに連れ去られた。このパピロン捕囚の時にユダヤ人の精神的支柱となる書物が編纂された。
そんな時代背景もあり、彼らが安住の地を求めて彷徨うストーリーは、やがて南米で土地を奪われて追いやられる先住民族や、彼らの救済、解放、権利獲得のために戦うカトリックの神学における支柱ともなった。それは一時はバチカンに異端とされた神学でもある。

イエズス会の宣教師ラス・カサスが先住民族の人権のために戦ってから今だにアマゾンでは先住民族の人権侵害に対する戦いが続いている。最近では金を始めとする鉱物の採掘のため、ジャングルは抉られ、水銀による汚染が蔓延して病に苦しむ先住民も増えている。そして日本人もその加害者側に回っている。そんな中で安住の地を、安らかな生活を取り戻すための彼らの戦いは続いているのだ。

トレメンべ族の家は白い砂の上に立つ、白い壁の家で、幻想的かつ神話的で、幻や夢の中に出てくるようだ。中にはハンモックがぶら下がり、そこで揺られながら、海からの微風に揺られながらいつまでも眠り続けることができた。夜になると子どもたちも一緒にみんなで神聖な場所に出かけて行き、そこで踊り続けた。輪になって回りをくるくる回りながら、輪の真ん中で大人が戦うような仕草で挑発し合うように面と向かい合って踊っていた。まるでヒップホップのダンスバトルのようだった。そんな美しい愛と勇気に満たされた平和な日々の中で、戦いのための作戦は繰り広げられて行った。

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