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短編小説 「シコリ」


とある朝、目が覚めると妙に胸が重い。寝返りを打つと、左胸に不快な圧迫感を覚えた。目をこすりながら、僕は起き上がって鏡の前に立つ。手のひらで胸を触ると、そこにははっきりとした梅干しの種くらいのシコリがあった。

「なんだこれ……」

夢見心地のまま呟いた声は、予想以上に響き、やけに現実味を帯びた。僕の胸に触れる手は震え、思わず引っ込めた。もう一度、慎重に触ると、シコリの硬さが再確認できた。動揺が次第に冷や汗に変わり、僕の背中を伝って滴り落ちる。

「やばい……これは……」

何か深刻なことが起こっているのかもしれないという不安が、頭の中でぐるぐると回る。男なのに、胸にシコリなんて一体どういうことだ?もしかして、乳がんなのか?だとしたら、どうすればいい?そう考えると、パニックに陥りそうになる。

取り乱しながら、僕は慌てて会社に電話をかけた。「すみません、風邪をひいてしまって……」声を震わせながら嘘をついた。風邪なんてもちろんひいていない。ただ、どうしても今日一日を乗り切る自信が湧いてこない。

電話を切った後、僕はカレンダーを確認し、病院の診療時間を調べた。だが、その間も不安は拭えず、鏡に映る自分の姿を見てはため息をつくばかり。時計の針が進むたびに、胸の痛みが一層強く感じられる気がした。

病院に着くと、待合室の椅子に腰掛け、周りの人々をぼんやりと眺めた。誰もが自分の問題を抱えているのだろうが、僕の心は他のことでいっぱいだった。名前が呼ばれ、医師の前に座った時も、頭の中で恐ろしい想像が膨らんでいた。

「どうしましたか?」医師が問うと、僕は恐る恐る胸のシコリについて説明した。医師は静かに頷きながら、丁寧に診察を始めた。触診が進む中、僕は息を飲み、診察台の冷たい感触に身を委ねるしかなかった。

「心配しないでくださいね。これは筋肉のコリです」医師がそう言った瞬間、僕は何が起こっているのか理解できなかった。目を見開き、口を開けたまま、ただ彼の顔を見つめた。

「筋肉のコリ……ですか?」

「ええ、ストレスや姿勢の悪さから来るものです。運動不足やデスクワークの影響でこうなることもありますよ」医師は穏やかな声で説明しながら、僕にいくつかのエクササイズを教えてくれた。

その場で力が抜けるのを感じた。心配していたことが、ただの筋肉の問題だったとは。帰り道、僕は肩の荷が下りたように感じながらも、胸を撫でると、あのシコリがまだそこにあることを確かめた。医師の言葉を信じて、これから正しい姿勢を心がけようと決めた。

家に戻ると、朝の不安が嘘のように感じられた。ソファに深く座り込み、リラックスして深呼吸をした。シコリのことを思い出すたびに、少し笑えてくる。病気じゃなくて良かった、と思う反面、もう少し自分の健康に気を使うべきだと痛感した。

それからの僕は、毎日エクササイズを続け、胸のコリが消えるのを楽しみにした。気づかないうちに自分の体に無理をさせていたのかもしれない。未来の不安を乗り越えた僕は、新しい日常を取り戻しつつあった。





時間を割いてくれてありがとうございました。

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