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短編小説 「タルト・タン」



ケーキ屋のショーケースの隅に、タルト・タンはじっとしていた。彼はチョコレートとタルト生地でできた、控えめだが確かな味わいを持つデザート。しかし、その日はもう何日も、誰一人として彼に目を留めることはなかった。

店内の照明が柔らかくケーキたちを照らす中、クリームがたっぷり乗ったショートケーキや、鮮やかな色のマカロンたちが次々と売れていく。その賑やかな光景を見ながら、タルト・タンは自分が忘れ去られた存在であることを感じていた。

「もう何日ここにいるんだろう」と、タルト・タンは自問する。店員たちは毎朝、新しいケーキたちをショーケースに並べては、「タルト・タン、もうそろそろ売れるかしら?」と呟くが、その声にはいつも一抹の不安が混ざっていた。売れ行きが悪く、タルトをやめるべきかという話が進んでいることは、タルト・タン自身も察していた。

「僕がもうここに置かれることがなくなるなんて、考えたくないな……」とタルト・タンは小さく震えた。彼はチョコレートの甘さとビターさが絶妙に絡み合った自分の味わいを信じていた。しかし、それだけでは足りないのだろうか。人々はより華やかな見た目や、トレンドのスイーツに心を奪われてしまう。

店内に鳴り響くベルの音とともに、新しいケーキが運び込まれてきた。店員たちはその新作をショーケースの真ん中に誇らしげに並べた。鮮やかな赤と白のコントラストが美しい、いちごタルトだ。その輝かしい存在感は、タルト・タンの小さなチョコレートの姿をますます隅に追いやっていった。

「どうしよう…僕はもう、ここに居場所がないのかな」タルト・タンの心は重く沈んでいった。彼はショーケースのガラス越しに、通り過ぎる人々をじっと見つめる。時折立ち止まる人もいたが、彼らの目はすぐにいちごタルトに吸い寄せられ、タルト・タンには見向きもしなかった。

その夜、ケーキ屋が閉店すると、店員たちはショーケースの中を片付け始めた。「明日から、このいちごタルトが主役になるのね」と、一人の店員が言った。タルト・タンはそれを聞き、ついに自分の運命を悟った。売れ行きが悪く、目立たない存在となってしまった自分に、もはやショーケースの一角を飾る価値はないのだ。

翌朝、タルト・タンのいた場所には、新しく作られたばかりのいちごタルトが置かれていた。鮮やかな色合いと艶やかなフルーツの輝きが、店の客たちの視線を集めている。

タルト・タンはもういない。しかし、彼の存在は、甘く切ない記憶となって、誰かの心に僅かにでも残っているだろうか。その答えは、誰にもわからない。

「でも、それでいいんだ」と、タルト・タンは心の中で静かに微笑んだ。彼はただ、美味しく食べてもらえる日を夢見て、ショーケースの隅で静かにその時を待ち続けていただけだった。そして、その夢は、いつかまた誰かの口の中で叶えられるかもしれないと信じていたのだから。




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