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独我論って成立しないよね

「独我論」という西洋哲学上の問題をご存じだろうか。「私」しか存在しない、という論だ。

分かりやすい例から述べると、例えば夢を見ているとき、色んな人や風景が出てくるが、それらは「私」の心に浮かんでくる幻想である。実際には存在しない。独我論はそこからさらに進む。夢だけではなく、「私」が覚醒しているときに見ている風景や人々も存在しないという。存在しているのは「私」だけだ。「私」以外の他の存在はすべてバーチャルなのだ。

世界の存在や他者の存在は疑える。確かに他者は幻想でしかないかもしれないと疑うことができる。「私」は神に騙されて幻想を見せられているかもしれないではないか。自分に見えている世界はもしかしたら全て幻想かもしれない。

もちろん本気で言ってはいない。しかし絶対に疑いえない確実な知識を得るために一度あえてすべてを疑ってみるのをデカルトの「方法的懐疑」という。

しかし「私」の存在は疑えない。なぜなら私は「私」が存在しているか疑っているが、そもそも疑っている当の「私」は存在しているはずである。「私」は神に騙されているかもしれないが、そもそも騙されている当の「私」は存在しているはずだ。これがデカルトの「われ思う、ゆえに我あり」という有名な言葉だ。すべてを疑っても「私」の存在は疑いようがないというのだ。「私」が存在しているのは100%立証できる。一見独我論は成立しそうだ。

大学時代、一ノ瀬正樹教授という先生の授業をとった。当時はたぶん助教授。彼は「独我論でいう『私』とはルネ・デカルトのことでしょうか。それとも一ノ瀬正樹のことでしょうか?」という趣旨のことを言っていた。全くその通りである。

例えば私、石川周平が吉田太一さんという人と独我論について論を戦わせたとする。独我論が正しいかについて二人は夜を徹して論じ、議論は白熱する。しかしちょっと待ってくれ。おかしくないか。なぜなら石川周平が言う独我論は「石川周平しか存在しない」ということであるが、吉田太一が言う独我論は「吉田太一しか存在しない」という意味なのだ。「独我論」という言葉で同じ内容を指しているようだが、石川と吉田では全く別のことを述べているのだ。

もし石川周平の言う独我論が正しければ、吉田太一は存在しないはずだ。その場合吉田太一は石川周平の心に映る幻想にすぎない。逆も然り。吉田太一の言う独我論が正しければ石川周平は存在しない。その場合、石川周平は吉田太一の心に映る幻想にすぎないからだ。二人は「独我論」という言葉で同じ内容を議論しているようだが、全く別のことを述べているのだ。

結局成立しうるのは個々人における「独我」であって、万人に共通する「独我論」ではない。独我「論」は成立しない。永井均氏が言う通り独我論は他者には語りえぬのである。当然ながら「語りえぬことには沈黙せねばならない」。

私は実在論をとっている。世界も他者も存在するという論だ。実在論が整合説的に考えて一番自然である。実在論が我々のいろんな経験と一番整合する。要は一番自然で無理がないのだ。

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