韓非子の最期 自ら研いだ諸刃の剣
韓非子は法家の大成者として知られる。その思想は法律で民衆を支配し、賞罰で臣下を掌握し、権威で体制を安定させるといったものだ。その著書を知った秦王(後の始皇帝)は、「ああ、この人を得ることが出来たら、死んでも良い」とまで言ったという。
その後、韓非は使者として秦に派遣されて来たが、その実力を恐れた李斯は、韓非が韓の国の王族であることを持ち出し、後の災いになると秦王に吹き込んだ。それによって韓非は投獄され、自殺に追い込まれてしまった。
以上が『史記』に見える韓非の最期だ。著者の司馬遷は、「(君主に愛されることが難しいという)『説難』を説きながら、自らも(その難しさから)逃れられなかったことが悲しい」と記している。
『韓非子』には『老子』を解説した解老・喩老篇がある。しかし、『老子』74章は韓非にとって、あまりに皮肉ではないか。厳罰という自らが研いだ剣を、我が身が受けることになったのだから。