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老子全訳

序文老子は、古代中国の諸子百家と呼ばれる思想家の一人で、その中でも道家の大家として知られる。その虚無的かつ逆説的な発想は、頭を柔らかくしてくれるものだ。 ここでは、『老子』全81章を簡潔で平易な現代日本語に翻訳することを試みた。特に、詩的な表現が失われないように心がけた。また、『老子』は内容の重複が多いことで知られており、それがその章の理解に不要と思われる場合は省いた。古いテキストになく、後世の加筆と思われる字句も同様に処理した。 (丸括弧)内は訳者の補足、〔亀甲括弧〕

    • 曹操の詩の劇的表現

      酒を前にして歌おう 人生はどれほどの長さか 例えれば朝露のよう なのに過ぎた日は多い 憤慨して嘆いてしまう この憂いを忘れられない どうやって憂いを解こう 酒に頼るだけだ 青々とした君の襟 はるばる望む私の心 ただ君のために 思いを歌い今に至る これは曹操の『短歌行』の、冒頭から劇的な転換がある部分までだ。それまで人生の無常を嘆いていたのに、いきなり優秀な人材を得て、大志を遂げようという内容に変わる。 『神亀雖寿』もまた、神獣さえ命は有限だとしながら、自らは老いても意気盛

      • 劉備の出自を疑うべきか

        劉備は『三国志』先主伝に、前漢の中山靖王の子孫と記されているが、祖父の劉雄以前の系譜は明らかではない。ただそれは、他の人物の伝記でも見られるもので、必ずしも劉備の出自が疑わしいとは言えない。 例えば武帝紀には、曹操の祖先について前漢の相国曹参から始め、次はやはり祖父の曹騰になる。注が引く王沈の『魏書』が、伝説の時代から曹氏の歴史を語っているのと比べれば、その差は偶然に思えない。 その理由は、乱世ゆえに十分な資料が得られなかったこともあるだろうが、当時の世相を反映したものか

        • 老子の「一」と二元論

          『老子』で「一」という語は、象徴的に使われている。それは、万物の始祖としての「道」を強調した表現と解釈出来る。しかし、それぞれの章を詳しく見ていくと、他にも様々な含意があるように見える。 39章の「一」は、自然界の循環に着想を得たものだろう。さらに、その盛衰を繰り返す姿から、王侯が高貴であり続けることの危うさを説いている。王侯が謙遜するのは、彼らもそれを自覚しているからではないか、という意地悪な疑問は痛快ですらある。 22章では、続く文章が「見識」や「正しさ」だから、つま

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        • 老子
          27本

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          三国志のお家騒動 鼎は軽い方が良い!?

          諸葛亮は暗愚な劉禅に足を引っ張られ、実力を発揮できなかった人物と捉えられることも多い。しかし、劉備の養子だった劉封が敗走してきた時、諸葛亮は彼を殺すように進言した。劉封は勇猛で、劉備の死後に制御出来なくなる事を恐れたためだ。逆に言えば、諸葛亮にとって劉禅は都合の良い君主ではなかったか。 『三国志』後主伝の評には、「白い糸は何色にも染まる」とあり、劉禅の周囲に流されやすい性格を表している。一方で諸葛亮の存命時に、改元や大赦を控えていた事は評価している。両者の関係は、それなりに

          三国志のお家騒動 鼎は軽い方が良い!?

          「小国寡民」は文明批判か

          『老子』80章は、「小国寡民」の理想郷を描いたものとして有名だ。それは『荘子』天地篇の「機心」と関連した、文明批判として解釈されることが多い。しかし、文字を使わないことが、隣国をうらやまないことになるのは何故だろうか。 50章と75章には、民衆が豊かな生活を求めるために、身を危険にさらしてしまうとある。老子の生きた時代には、隣国は自分たちより良い暮らしをしていると扇動し、民衆を戦いに駆り立てることが行われていたのではないか。識字率が向上し、そうした宣伝が効率的に行えるように

          「小国寡民」は文明批判か

          劉備と劉表 意外と仲が良かった?

          劉備が荊州に逃れた時、領主の劉表は厚遇したものの、内心は疑っていたという。曹操が北へ遠征すると、劉備はその留守を狙うことを進言したが、劉表は聞き入れなかった。これが、『三国志』先主伝本文に見える話だ。 しかし、注には様々な異聞が記されている。『漢晋春秋』によれば、劉表はその後「君の進言を用いなかったために、好機を逃してしまった」と悔やみ、劉備は「天下の形勢は定まっておらず、まだ機会はありますよ」と慰めている。 また『英雄記』と『魏書』によれば、劉表が後継者に指名していたの

          劉備と劉表 意外と仲が良かった?

          小から大へ 自分から世界へ

          『老子』54章は、小さなものから大きなものへと展開する。10章も自分の精神から、世界に通じる「道」へと視野が拡大していく。この尺度の広大さには、詩的な魅力を感じる。 そしてここで、老子が度々言う「無知」が、本当に何も知らないことではないと気付く。47章には「遠くへ行くほど、知ることは少なくなる」とあり、33章もまた「自分を知る者は聡明だ」とする。 54章に戻ってみれば、老子はそうすることで「天下の有様を知った」のだと言う。自分を知れば世の中のことも見えてくるのだから、他人

          小から大へ 自分から世界へ

          聖人の感情

          三国時代の王弼は、『老子』の注によってよく知られており、それは今なお盛んに参照されている。『三国志』鍾会伝には、「聖人は、陰陽の気を調和させて無に通じることが出来るが、感情そのものを無くすことは出来ない」という彼の言葉が記されている。 これは、儒家の書である『中庸』に依拠したものだろうが、『老子』にも「聖人の感情」を思わせる文章がある。20章には、楽しそうな「衆人」と孤独な「我」の対比が描かれ、他の章にはない感情の吐露が見える。 それを踏まえると、70章で天下の人々が無知

          聖人の感情

          老子と黄老 道家と法家

          『老子』3章は愚民政治と解釈されることがあり、慎到の思想が影響したという説もある。確かに、慎到の書とされる『慎子』は『老子』に似ている。威徳篇の冒頭で「天は明るいが、人が暗いのを心配しているわけではない」と言うのは、『老子』5章と共通する思想のようだ。 慎到は君主の権勢を維持すれば、安定した政治が実現出来ると考えた。そのために法制度を整備し、君主の力量に依存しない体制を理想とした。その思想には、道家と法家の性質が同居しているように思える。 慎到は韓非子に影響を与えており、

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          劉備の遺言 反逆の道を開いたのか

          劉備が諸葛亮へ「私の跡継ぎが補佐するに値する人物なら、そうしてやってくれ。そうでないのなら、君が自ら(国を)取れ」と遺言したことは有名だ。『三国志』先主伝で、著者の陳寿は「君臣の間に私心が無いのは、時代を超えた模範だ」と両者の関係を評している。 一方で、この遺言は古くから疑いの目で見られていたようだ。諸葛亮伝の注には、「忠実な賢者に後を託すのなら、こんな説教は不要だ。そうでない人物なら、反逆への道を開くべきではない」という孫盛の言葉が記されている。儒家的な倫理からは、もっと

          劉備の遺言 反逆の道を開いたのか

          無私の私 自他の境界

          『老子』7章は、「非以其無私耶、故能成其私」という句で終わっている。直訳すれば、「私が無いから、私が成り立つ」となるが、これでは難解だ。『老子全訳』では「私欲が無いから、自己が確立する」としたが、訳文の簡潔さと引き換えに、説明が不十分になってしまったと感じる。 そこでここでは、もう少し深く考え直したい。おそらくそれは、自他の境界があることだと思う。もし、他人の何かを得ることを望むならば、得れば得るほど自分は他人になってしまう。つまり、自分の利益を求めることが、自己を崩壊させ

          無私の私 自他の境界

          英傑は顔が命?三国志注の異聞逸話

          『三国志』には裴松之の注があり、そこには様々な異聞が記されている。その中には醜聞の類もあるだろうが、小説『三国演義』に取り入れられて有名な話も多い。 孫策は許貢の残党に襲撃され、その時の傷が重く死に至ったと『三国志』本文に記されている。ところが、注が引く『呉歴』には、負傷から百日後に顔の傷跡を見た孫策が「こんな顔で、また功を立てることが出来るものか!」と言うと、古傷が開いて死んでしまったとある。 孫策は容姿が美しく、非常に魅力的な人物だったというが、それにしても『呉歴』の

          英傑は顔が命?三国志注の異聞逸話

          老子注解 38章 徳は見返りを求めない

          徳とは道によって得られるもの、と王弼が注釈している。仁・義・礼は儒家が徳としたもの。この章を理解する目的に限れば、仁は他者への愛、義は倫理観、礼は社会規範と言える。 原文には「見返りを求めない」の次に「下德」についての句があり、「低い徳は行為をして、見返りを期待する」という意味になる。しかし、これは義についての句と重複しており不審だ。馬王堆帛書にこの句がないのは、もっともなことだろう。 「相手の顔色をうかがう」は原文が「前識者」であり、前識には予知や先見といった意味がある

          老子注解 38章 徳は見返りを求めない

          韓非子の最期 自ら研いだ諸刃の剣

          韓非子は法家の大成者として知られる。その思想は法律で民衆を支配し、賞罰で臣下を掌握し、権威で体制を安定させるといったものだ。その著書を知った秦王(後の始皇帝)は、「ああ、この人を得ることが出来たら、死んでも良い」とまで言ったという。 その後、韓非は使者として秦に派遣されて来たが、その実力を恐れた李斯は、韓非が韓の国の王族であることを持ち出し、後の災いになると秦王に吹き込んだ。それによって韓非は投獄され、自殺に追い込まれてしまった。 以上が『史記』に見える韓非の最期だ。著者

          韓非子の最期 自ら研いだ諸刃の剣

          老子と孟子

          『老子』18章には「仁義」への批判があり、それを重視した孟子との対立が指摘されてきた。しかし同時に、類似点もある。55章では赤子を理想の体現者として説くが、『孟子』離婁下篇にも、「赤子の心」を徳とする思想が見える。これはつまり、いわゆる性善説だ。 また、孟子は民衆を根本とし、君主を軽んじた。老子も66章で民衆に推戴されることを、また78章では汚辱や不祥を甘受することを王者の条件としている。これらのことから、老子が孟子に触発され、その思想を編み出したことは間違いないと思う。

          老子と孟子