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老子全訳


序文

老子は、古代中国の諸子百家と呼ばれる思想家の一人で、その中でも道家の大家として知られる。その虚無的かつ逆説的な発想は、頭を柔らかくしてくれるものだ。

ここでは、『老子』全81章を簡潔で平易な現代日本語に翻訳することを試みた。特に、詩的な表現が失われないように心がけた。また、『老子』は内容の重複が多いことで知られており、それがその章の理解に不要と思われる場合は省いた。古いテキストになく、後世の加筆と思われる字句も同様に処理した。

(丸括弧)内は訳者の補足、〔亀甲括弧〕内は他章から移入した句を指す。訳文に反映し難い注釈などは、章の末尾に【注】あるいは【私見】として付記した。作業を電子化するため、資料は Chinese Text Project https://ctext.org/ に依った。

1章

言うことの出来る道は、常にある道ではない。名付けることの出来る名は、常にある名ではない。名が無いことは万物の始まりであり、名があることは万物の成熟した姿だ。

だから、(名を求める)欲が無ければ、微妙な(道の)働きが見え、欲があればその結果だけを見る。この両者は同じ所から出たものだが、(無名と有名という)違う名を持つ。その同じものを深淵と言い、そのさらに深い所に、微妙なものの起源があるのだ。

2章

天下の人々は、美しいものは美しいとするが、それが醜いということだ。良いものは良いとするが、それが悪いということだ。

つまり、有無は互いがあるから生まれ、難易は互いがあるから成り立ち、長短は互いがあるから形になり、高低は互いがあるから目に見え、音声は互いがあるから調和し、前後は互いがあるから順序になる。

だから、聖人は行為をしないという立場で、(価値観を作り出す)言葉に頼らない教えを行う。万物が生み出されても口出しせず、育てても所有せず、助けても誇らず、成功しても(高い価値に)居座らない。そもそも居座らないから、追い出されることもないのだ。

3章

賢者を褒めず、民衆が争わないようにする。珍しい財宝をありがたがらず、民衆が盗みたくならないようにする。欲望をあおるものを見せず、民衆の心を乱さないようにする。

つまり聖人の政治は、(自分の)心を空虚にして腹を満たし、意志を弱めて骨格を強くする。(そうすることで、)常に民衆が(他人を)知ろうとせず、欲望を抱かないようにする。あの賢者が意欲を持たず、余計な事をしないようにする。そうすれば、治まらないはずはないのだ。

4章

道は空っぽなのに使え、満ちあふれることもない。底知れぬ万物の根源で、奥深くて何かがあるようだ。私はそれが誰の子かを知らない。天よりも先にあったのだろう。

5章

天地に仁愛は無い。万物を藁人形のように扱う。聖人にも仁愛は無い。人々を藁人形のように扱う。

天地の間は、(仁愛の無い)ふいごのようなものだろうか。何も無いのに尽きず、空虚なのに出てくる。(しかし人は、)言葉が多いと息切れする。(ふいごのように、心を)空虚にしておいた方が良い。

6章

谷の神は死なない。それを深遠なる渓谷といい、その出口を天地の根源という。昔からずっと存在しているようなのに、いくら生み出しても力尽きることはない。

7章

天地は末永く続いてきた。そうなれるのは、長生きしようとしないからだ。

つまり聖人は、身を退くのに先を譲られ、保身に走らないのに身を守る。それは、私欲が無いからではないか。だからこそ、自己を確立することが出来るのだ。

8章

優れたものは水のようなものだ。水は万物を潤し、しかも誰とも争わず、人々の嫌う(低い)所へ流れる。だから、道に近いものと言える。

居場所は低く、心は深く、付き合いは優しく、言えば正直、治めれば安泰、働けば有能、動けば適時。

そもそも、争わなければ恨まれることもないのだ。

9章

充実したままでいようとするのは、やめた方がいい。刃物を研ぎすぎれば、長く使い続けられない。部屋に宝物が満ちていると、守ることは出来ない。裕福さを自慢すれば、災いを招くことになる。成し遂げたら身を退くのが、天の道というものだ。

10章

精神と肉体を一つにして、離れないように出来るか。気を静めて柔和になり、赤子のようでいられるか。心を清めて深淵をのぞき、目を曇らせずにいられるか。民衆を愛して国を治めるのに、知恵に頼らずにいられるか。天下が乱れそうになっても、雌鳥のように落ち着いていられるか。明白に道に通じていながら、知識を持ち出さずにいられるか。

11章

三十の矢が一つの軸に集まる。その間に何も無いから、車輪として機能する。土をこねて器を作る。その間に何も無いから、器として機能する。壁に扉や窓の穴を開けて、部屋を作る。その間に何も無いから、部屋として機能する。

だから、有ることの利益は、(実は)無いことの機能なのだ。

12章

鮮やかな色は人の目をくらませ、きらびやかな音は人の耳を遠くし、数々の珍味は人の舌を麻痺させ、大掛かりな狩猟は人の心を狂わせ、珍しい財宝は人の行いを妨げる。

だから、聖人は腹を満たしても、目を喜ばせない。快楽を捨てて実を取るのだ。

13章

人々は寵愛と恥辱を恐れるようだ。(寵愛と恥辱という)苦しみを我が身のように重んじている。

「寵愛と恥辱を恐れる」とは何か。寵愛が下らないものなのは、得れば(失うことを)恐れ、失っても恐れるものだからだ。これを、寵愛と恥辱を恐れると言う。

「苦しみを重んじる」とは何か。私が苦しむのは、我が身があるからだ。我が身が滅んでしまったら、どうやって苦しむのか。

だから、天下より我が身を重んじる者になら、天下を預けることが出来る。天下より我が身を愛する者になら、天下を託すことが出来る。

14章

見ても見えないものを微かといい、聞いても聞こえないものを希少といい、触っても触れないものを平らという。この三者は突き詰めることが出来ないから、混ぜ合わせて一つと考える。

その上は明るくなく、その下は暗くもない。終わりが見えず、名状しがたいまま、無へと帰っていく。これを形状無き形成、物質無き形成、あるいは恍惚と言う。それを迎えても始まりは見えず、付いて行っても終わりは見えない。

昔からある道を守り、今あるものを修めることで、根源を知ることが出来る。それを、道の法則と言うのだ。

15章

昔の大人物は、微妙でありながら道に通じていて、奥深く認識しがたいものだが、何とか表現してみよう。

慎重なのは冬の川を渡るようだ。抑制的なのは隣国を恐れるようだ。重々しいのは客人のようだ。打ち解けるのは氷が溶けるようだ。温厚なのは木のようだ。寛大なのは谷のようだ。分け隔てないのは濁流のようだ。

誰が濁っているものを静め、徐々に清くすることが出来るのか。誰が止まっているものを動かし、徐々に活発にすることが出来るのか。この道を守る者は、満ちあふれようとしない。そもそも、満ちあふれようとしないからこそ、道を守り余計なことをしないのだ。

16章

心を空虚にして、気を静める。そうすれば、万物が作り出される様子が、繰り返し見えてくる。万物は繁栄し、それぞれの根本へと帰っていく。

根本へと帰ることを静かになると言い、これを命に帰るとも言う。命に帰ることを恒常と言い、それを知ることを明るいと言う。恒常のあり方を知らなければ、災いを生み出すことになるだろう。

恒常を知れば寛容になり、寛容になれば公平になり、公平になれば王者になり、王者になれば天に通じ、天に通じれば道に通じ、道に通じれば長生きし、生涯危ういことはないのだ。

17章

最も良い君主は、民衆にその存在を知られているだけだ。それに次ぐ者は、民衆に敬愛される。それに次ぐ者は、民衆に恐れられる。それに次ぐ者は、民衆に侮られる。

(他人を)信用しない者は、(他人からも)信用されない。言葉を慎み、事を成し遂げれば、民衆は自らそうなったと思うのだ。

18章

道が廃れて仁義がある。家族が不和になり孝慈が褒められる。国家が混乱して忠臣が現れる。

19章

君主が知恵を捨てれば、民衆の利益は百倍になる。君主が見せかけの思いやりをやめれば、民衆は素朴さを取り戻す。君主が利益を求めなくなれば、盗賊はいなくなる。この三つの言葉だけでは足りないから、拠り所を示そう。君主が素朴ならば、民衆の私欲はなくなる。

20章

猫なで声と怒鳴り声に、どれほどの違いがあるのか。美しさと醜さに、どれほどの違いがあるのか。(それなのに、)他人が恐れることを、(私もまた)恐れずにはいられない。

荒涼として終わりが見えない。皆はごちそうを食べ、春の景色を楽しんでいるかのようだ。私だけがどうなるのか知れず、まだ笑わない赤子のようだ。疲れ果てて、帰る家さえ無いようだ。

皆は余裕があるのに、私だけが困窮しているようだ。私の心は愚かで、混沌としている。皆は明るいのに、私だけは暗い。皆ははきはきとしているのに、私だけがぐずぐずとためらう。

海のように先が見えず、止まる所が無いように漂う。皆は有能なのに、私だけが頑迷だ。それでも、私だけは他人とは違い、母に養われる(素朴な赤子のようである)事を大切にしていきたい。

【私見】老子もやはり人間であり、他人に影響され不安になることはあったようだ。

21章

徳の姿は、ただ道に従うだけだ。道の姿は、ただぼんやりとしているだけだ。そのぼんやりとした中に、何かの現象がある。そのぼんやりとした中に、何かの物体がある。その深い闇の中に、何かの力がある。その力が充実して、確かなものになる。

いくら過去へ遡っても、道が無くなることはない。こうして、万物の始まりが分かる。どうして私は万物の始まりを知ったのか。この事によってだ。

22章

曲がれば全うし、屈めば伸び、くぼめば満ち、破れれば新しくなり、少なければ得て、多ければ迷う。

だから、聖人はこの「一」を胸に抱き、天下の模範となる。見識を誇らないから、物事が明らかになり、正しさを誇らないから、是非が分かり、功績を誇らないから、それが認められ、能力を誇らないから、それが長続きする。そもそも争わないから、誰も彼と争うことは出来ない。

昔から言い伝えられた「曲がれば全うする」とは、どうして嘘だと言えるだろうか。そうやって本当に命を全うするのだ。

【私見】『老子』の「一」には、様々な意味が含まれていると思われる。ここでも唯一、一定といったものが想定される。

23章

静かなのがあるがままの姿だ。突風が夜通し吹くことはなく、暴雨が一日中続くこともない。一体誰が風雨を起こしているのだろうか。天地さえもそれを続けられないのに、人であれば言うまでもない。

だから何かをする時、道に従う者は道を得て、徳のある者は徳を得て、道を見失った者は失敗を得る。道に従う者は、道もまた彼の道を認め、徳のある者は、道もまた彼の徳を認め、道を見失った者は、道もまた彼を見失うのだ。

24章

背伸びをする者は(長く)立っていられず、大股で歩く者は(遠くへ)進めない。見識を誇る者は物事が見えず、正しさを誇る者は是非が分からず、功績を誇る者は認められず、能力を誇る者は長続きしない。

道から見れば、それらは余分な食べ物や余計な行いだ。人々はそういうものを嫌う。だから、道を守る者はそれを避けるのだ。

25章

混沌としたものが、天地より先にあった。音も形もなく、独立して(誰にも)変えられず、どこにでもあり揺るぎなく、天下の母と言えるものだ。私はその名を知らない。仮の名を付ければ「道」と言い、強いて名付ければ「大」とも言う。大きくなれば行き、行けば遠ざかり、遠ざかれば帰ってくる。

道は大きく、天も大きく、地も大きく、王も大きい。この世には、それら四つの大きなものがあり、王もその中の一つだ。人は地に従い、地は天に従い、天は道に従い、道はあるがままだ。

26章

重いものは軽いものの根本で、静かさは騒がしさの主体だ。だから、聖人は一日中行軍しても、重い荷車を置き去りにしない。宮殿にいても、超然とくつろぐものだ。

どうして大国の主が、我が身を天下より軽く扱えるのか。軽率であれば身を滅ぼし、騒がしければ地位を失うのだ。

27章

良く行く者はわだちを残さない。良く言う者は欠点を責めない。良く計画する者は策略を用いない。良く閉める者は鍵を使わないのに開かない。良く結ぶ者は縄を使わないのに解けない。

つまり、聖人は常に人々を救い、見捨てることはない。人々の才能を役立て、無駄にすることはない。これを明かりに従うと言う。

だから、善人は不善人の師匠であり、不善人は善人の補佐だ。師匠を尊敬せず、補佐を愛さなければ、いくら賢くても迷ってしまう。これを微妙な要点と言う。

28章

剛強であることを知りながら、柔和であることを忘れなければ、天下の(人々が集まる)川になる。そうなれば、徳を失うことはなく、赤子に立ち返る。潔白であることを知りながら、汚辱にまみれることを嫌がらなければ、天下の(人々が集まる)谷になる。そうなれば徳が満ち足りて、素朴さに立ち返る。

(例えて言えば、)素朴な木は加工されて道具となるが、聖人はそれを使いこなす。つまり良い制度とは、余計な手出しをしないことなのだ。

29章

天下を手に入れようとして、作為を加えても失敗するだけだ。天下(の人々)は神秘であり、作為を加えるべきではない。余計なことをすれば変質してしまうし、強制すれば(純粋な心が)失われてしまう。

つまり、人々には先行する者もいれば追随する者もいて、温厚な者もいれば冷淡な者もいて、強い者もいれば弱い者もいて、慎重な者もいれば果敢な者もいる。だから、聖人は極端に走らず、奢らず、贅沢はしないのだ。

30章

道によって君主を補佐する者は、武力で天下の強者になろうとはしない。武力とは跳ね返ってくるものだからだ。大軍のいる所にはいばらが生え、去った後は必ず凶作になる。

優れた者は成し遂げるだけで、強さは選ばない。だから能力を誇らず、功績を誇らず、偉そうにせず、仕方なくやったことにする。これを、成し遂げても強くならないと言う。盛んなものは老いる。それを道に外れると言う。道に外れたものは、すぐに終わってしまうのだ。

31章

全く、武器というものは不吉なものだ。(だから、平時の)君主は左を上席とし、戦時は右を上席とする。

武器は不吉だから、君主にはふさわしくないものだ。やむを得ず用いる時は、淡々としているのが良い。勝利したとしても、喜んではならない。もし喜ぶなら、それは殺人を楽しむことだ。全く、殺人を楽しむ者が、天下に志を遂げられるはずがない。

めでたい場では左を上席とし、葬礼では右を上席とするものだ。だから、副将軍は左に座り、大将軍は右に座る。このことを葬礼の席と言う。人を数多く殺すのだから、悲しみを抱いて(戦場に)立ち、勝っても葬礼の席に座るのだ。

32章

道が名を持つことはない。素朴なものは(名にとらわれないから)、たとえ小さくとも支配出来る者はいない。もし王侯がその事を忘れなければ、万物は彼らを歓迎するだろう。天地は調和して吉祥を示し、民衆は命令されなくとも平穏だろう。

制度が出来た時、名も作られた。そうなってしまったからには、(名を得ようとする前に、)立ち止まることを知っておきたいものだ。そうすれば、危ういことはない。道が天下にあるのは、例えれば小川が大河や海に注ぐようなものだ。

33章

他人を知る者には知恵があるが、自分を知る者は(さらに)聡明だ。他人に勝つ者には力があるが、自分に勝つ者は(さらに)強い。

足ることを知る者は富み、(自分に勝つ)強い者は志を遂げられる。自分を見失わない者は長生きし、死ぬまで(道を)忘れない者は長寿なのだ。

34章

道は広大で、どこにでも行き渡る。成し遂げても名誉とはせず、万物を育てても支配しようとはしない。つまり、いつも無欲だから、小さなものと言える。しかし、万物が頼りにするものだから、大きなものとも言える。

だから、聖人は自らを大きいとしないことで、大きな存在になれるのだ。

35章

道に従えば、天下の人々が心を寄せるようになる。それでいて彼らを傷付けなければ、(天下は)泰平だ。

音楽と美食には、旅人が足を止めるものだ。しかし、道を口にしても、あっさりとして味がない。見ても見えないし、聞いても聞こえないが、使っても尽きることはないのだ。

36章

縮めようとするなら、必ず先に伸ばせ。弱めようとするなら、必ず先に強くしろ。滅ぼそうとするなら、必ず先に盛り立てろ。奪おうとするなら、必ず先に与えろ。

これを微妙な明知と言う。柔弱は剛強に勝つ。魚が淵から離れてはならないように、国は武力を誇示してはならないのだ。

37章

道は常に行為をしないのに、それでいて全てを成し遂げている。もし王侯がその事を忘れなければ、民衆は自ら学ぶだろう。それでも彼らが欲望を抱くなら、名にとらわれない素朴さでそれを鎮めよう。彼らが(他人を)知ろうとするなら、足ることを知ることでそれを鎮めよう。そうすれば、天下は自ずと安定するだろう。

〔だから、行為をしないということをして、事を起こさないということをして、味のないものを味わうのだ。〕

【注】末尾の句は本来63章にあるものだが、郭店楚簡ではこの章の後にあり、文章の流れからここに移した方が良いと考えた。

38章

高い徳はそれにこだわらない。だから徳がある。低い徳はそれを失うまいとする。だから徳が無い。

高い徳は行為をしないし、見返りを求めない。高い仁は行為をするが、見返りを求めない。高い義は行為をして、見返りを期待する。高い礼は行為をして相手が応じなければ、腕ずくで返礼させる。

つまり、道が失われた後に徳があり、徳が失われた後に仁があり、仁が失われたあとに義があり、義が失われた後に礼がある。全く、礼というのは真心が軽薄になったものだから、争乱の始まりだ。相手の顔色をうかがうのは、道が形骸化したものだから、愚行の始まりだ。

だから、大人物は重厚で、軽薄さを選ばない。実質が伴っていて、形式にとらわれないのだ。

【私見】徳とは道によって得られるもの、と王弼が注釈している。仁・義・礼は儒家が徳としたもの。この章を理解する目的に限れば、仁は他者への愛、義は倫理観、礼は社会規範と言える。

39章

原始に「一」を得たものは、天は一によって清く、地は一によって安らかに、神は一によって霊験に、谷は一によって満ち、万物は一によって生まれ、王侯は一によって高貴になった。

だから、天は清いままだと裂けてしまうだろうし、地は安らかなままだと崩れてしまうだろうし、神は霊験なままだと力尽きてしまうだろうし、谷は満ちるままだと干上がってしまうだろうし、万物は生まれるままだと滅んでしまうだろうし、王侯は高貴なままだと失脚してしまうだろう。

つまり、尊いものは卑しいものを根本とし、高いものは低いものを基本としている。王侯が孤独や不幸などと自称するのは、高貴さが卑しさに基づくと知っているからだろうか。それとも違うだろうか。

だから、あまりに称賛されるのは良いことではない。宝石のように高貴ではなく、石ころのように価値の無いものでいたいのだ。

40章

循環するのが道の運動であり、柔弱なのが道の作用だ。万物は有から生まれ、有は無から生まれる。

41章

立派な人は、道を知れば真面目に実行する。平凡な者は、やったりやらなかったりする。下らない者は、大笑いする。笑われないようでは、道と言うには足りない。だから、こういう格言がある。

明るい道は暗いようで、進む道は退くようで、平らな道は歪んでいるようだ。高い徳は谷のようで、潔白は汚れているようで、広い徳は足りないようだ。しっかりした徳は軽はずみなようで、素朴な誠実さは移り気なようだ。大きな四角形には隅が無く、大きな器には終わりが無く、大きな音は聞き取れず、大きな姿には形がない。

道は莫大で名付けようがない。そもそも道は、始まりであり終わりでもあるのだ。

【注】「大器晩成」の出典。

42章

道は一を生み、一は二を生み、二は三を生み、三は万物を生んだ。万物は陰を背負い陽を抱いて、両者が交わり調和する。

人が嫌うのは孤独や不幸なのに、王侯はそれを自称している。つまり、人は損をしたはずが得になることもあれば、得をしたはずが損になることもある。

他人が教えてくれたことを、私もまた教えよう。凶暴な者は、まともな死に方をしない。私はこうして他人を教師としよう。

【私見】この章は内容にまとまりがなく、39章から43章までを補足するもののように思える。

43章

この世で最も柔らかいものが、固いものを思うがままにする。形のないものが、隙間のないものに入り込む。

私は(水を見て)、行為をしないことの利益を知った。(こうした)言葉の無い教えと行為の無い利益は、天下の中で並ぶものがありそうにない。

44章

名誉と我が身は、どちらが身近だろうか。我が身と財産は、どちらが貴重だろうか。得ることと失うことは、どちらが苦しいだろうか。(目に見えるものを)愛しすぎれば、必ず浪費することになる。大量に蓄えれば、必ず失うことになる。

だから、足ることを知っていれば、恥をかかされることはない。止まることを知っていれば、生涯危ういことはなく、長続きするのだ。

45章

大いなる完成は欠けているようでいて、その作用に欠点はない。大いなる充実は空虚なようでいて、その作用が尽きることはない。大いなる正直は屈折しているようで、大いなる技巧は下手なようで、大いなる弁論は無口なようだ。

体を動かせば熱くなるが、静かであることは熱さに勝る。静かであれば、天下の模範となるのだ。

46章

天下に道があれば、早馬は持ち主に返されて、農耕に使われる。天下に道が無ければ、軍馬が戦場で子を生む。

欲深いことより大きな罪は無く、得ようとすることより大きな過ちは無く、足るを知らないことより大きな災いは無い。足るを知って満足するのは、常に満足することなのだ。

47章

扉から出ずに天下を知り、窓をのぞかずに天道を見る。遠くへ行くほど、知ることは少なくなる。

だから、聖人は(遠くへ)行かずに知り、(他人を)見ずに分かり、行為をせずに成し遂げるのだ。

48章

学問をする者は、日々やることが増えていく。道を修める者は、日々やることが減っていく。そうして、ついにはやることが無くなる。それでいて、全てを成し遂げている。〔学ぶことをやめれば、不安は無くなるのだ。〕

【注】末尾の句は本来20章にあるものだが、郭店楚簡ではこの章の後にあり、文章の流れからここに移した方が良いと考えた。

49章

聖人は常に私心が無く、民衆の心を自分のものとする。善良な者は善良とし、善良ではない者もまた善良とする。徳とは善良さだ。誠実な者は誠実とし、誠実ではない者もまた誠実とする。徳とは誠実さだ。

聖人が天下に臨む時は、私欲を抑えて民衆と心を一つにする。民衆が他人を気にしても、聖人は彼らを赤子のように(素朴に)するのだ。

50章

人は生まれ、そして死んでいく。生者には肉体があり、死者にも肉体がある。しかし民衆は、生きようとして死に急いでしまう。彼らにも(同じ)肉体がある。(肉体的な差はないのに、)一体どうしてなのか。それは、より豊かな生活を求めるからだ。

聞くところでは、上手く生き延びる者は山に行っても猛獣を避けず、陣中でも鎧兜を身に付けない。角で突かれることもなく、爪で引っかかれることもなく、剣で斬られることもない、と言う。一体どうしてなのか。それは、(欲望が無いために)死に急がないからだ。

51章

道は万物を生み出し、徳はそれを養う。そうして万物は形作られ、機能が完成する。

だから、万物は道を尊重し、徳を高貴なものとする。道と徳がそうした存在なのは、誰かに地位を与えられたからではなく、常に自らそうなのだ。

道は万物を生み、養い、育て、完成させ、保護する。生み出しても所有せず、助けても誇らず、育てても支配しない。これを深遠なる徳という。

52章

天下には始まりがあり、それを天下の母とする。その母を知れば、その子のことも分かる。その子を知って、さらにその母を守れば、生涯危ういことはない。

目を塞ぎ、口を閉じれば、疲れることはない。目を開き、欲望を満たそうとすれば、救われることはない。

かすかな物を見ることを明るいといい、柔弱さを守ることを強いという。光を(自己の内面に)向けて、明るさを取り戻せば、我が身に災いが降りかかることはない。それを、恒常(の道)に従うと言うのだ。

53章

もし、私が断固として知識を捨てないなら、大きな道を行く時、そこから外れてしまうかもしれない。大きな道は平らなのに、民衆は脇道にそれてしまいやすい。

宮殿は新築されるが、田畑は荒れ、穀倉は空だ。それなのに派手な服を着て、鋭利な剣を帯び、飽きるほど飲食し、有り余る財産を持っている者を、盗賊の首領と言う。それが道を外れるということだ。

54章

しっかりと建てたものは抜けず、しっかりと抱えれば落とさず、子孫の代まで安泰だ。そうして(根本を守ることで)我が身を修めれば、その徳は充実したものになる。家を修めれば、その徳には余裕が出来る。村を修めれば、その徳は大きくなる。国を修めれば、その徳は豊かになる。天下を修めれば、その徳は広く行き渡る。

だから、我が身(が根本を守っているかどうか)で我が身を見て、家で家を見て、村で村を見て、国で国を見て、天下で天下を見る。私はどうやって天下の有様を知ったのか。このことによってだ。

55章

豊かな徳を持つ者は、赤子のようだ。毒虫や毒蛇も噛みつかないし、猛禽や猛獣も襲わない。骨が弱く筋肉が柔らかいのに、手は固く握っている。男女の交わりを知らないのに、そのための肉体が出来ているのは、力の極致だ。一日中泣いても憂鬱にならないのは、調和の極致だ。

調和を知ることを恒常と言い、それを知ることを明るいと言う。生命を強くすることを大きいと言い、精神を使うことを強いと言う。盛んなものは老いる。それを道に外れると言う。道に外れたものは、すぐに終わってしまうのだ。

56章

知る者は喋らない。喋る者は知っていない。目を閉じ、口を塞ぎ、欲望を鎮め、感情を解きほぐし、栄光を争わず、汚辱を嫌がらない。これを、深淵との同化と言う。

そうすれば、親しまれることも、疎まれることも、利益を与えられることも、危害を加えられることも、尊いと思われることも、卑しいと思われることも無くなる。だからこそ、天下で最も尊いと言えるのだ。

【注】「和光同塵」の出典。

57章

国を治めるのは正常、武力を用いるのは異常として、事を起こさないことによって天下を治める。私は、何からこのことに気付いたのか。

天下に規制が多いほど、民衆は貧しくなる。民衆に武器を使わせるほど、国家は混乱する。技巧を凝らそうとするほど、異常なものが出来る。法律を厳格にするほど、盗賊は多くなる。

だから聖人は言う。私が余計なことをしなければ、民衆は自ら学ぶ。私が平穏を好めば、民衆は罪を犯さない。私が事を起こさなければ、民衆は豊かになる。私に欲が無ければ、民衆も素朴になる、と。

58章

政治が寛大なら、民衆の心は豊かになる。政治が厳格なら、民衆の心は貧しくなる。

不幸から幸せが生まれ、幸せには不幸が潜んでいるものだが、誰にその境界が分かるのか。そもそも、(絶対的な)正常など無い。正常は異常にもなり、善行は災いにもなる。それに人々が惑わされるのは、昔からのことだ。

だから、聖人は正しくても他人を切り捨てず、鋭くても傷付けず、率直でも衝突せず、光ってもまぶしくないのだ。

59章

人々を治め、天に仕えるのに、惜しむことに勝るものはない。惜しむからこそ、早くから道に従う。早ければ、その徳は積み重なる。積み重なれば、勝てないものはない。勝てないものがなければ、その徳は無限大だ。無限大ならば、国を守ることが出来る。国を守る道があれば、その国は長続きする。それが根を深く下ろし、末永く安泰な道と言うのだ。

60章

大国を治めるのは、(崩れやすい)小魚を煮るようなものだ。

道に従って天下に君臨すれば、鬼は力を失う。いや、鬼が力を失うのではなく、その力が民衆を傷付けなくなるからだ。いや、その力が民衆を傷付けなくなるのではなく、(実は)聖人が民衆と傷付け合わないからだ。傷付け合わないからこそ、その徳が互いに帰ってくるのだ。

61章

大国は(川の)下流のようなものだ。そこは天下(の人々)が交流する所で、天下の渓谷だ。渓谷は、いつも静かであることによって山を崩す。それは、静かに下へと流れるからだ。

大国はへりくだることによって、小国を手に入れる。小国はへりくだることによって、大国に奪われる。へりくだったために手に入れることもあれば、へりくだったせいで奪われることもある。

大国は養おうとするだけで、小国は仕えようとするだけだ。全く、どちらも望ましい結果を得ようとするなら、大きい方がへりくだるべきだ。

62章

道は万物の奥にあり、善人の宝であり、不善人もまた持っているものだ。美しい言葉は人に注目されるし、尊い行いは人を動かす力がある。そういった人々が不善だからといって、どうして見捨てられるだろうか。

だから、天子が即位して大臣が任命された時、宝石と馬車を献上する儀式よりも、ひざまずいて道を勧めた方が良い。

昔から道が尊重されてきた理由は何だろうか。求めれば手に入り、罪があっても免れる、と言うではないか。だから、天下で最も尊いと言えるのだ。

63章

小さいものを大きいとし、少ないものを多いとする。恨みは(小さなうちに)徳で報いる。難しいことは容易なうちに手を付け、大きなことは小さいうちに行う。

天下の困難さえいつも容易なことから起こり、天下の大事さえいつも小さなことから起こる。だから、聖人は大きな事をしないことで、(結果として)大きな事を成し遂げたことになる。

全く、軽々しく約束すれば信用を失う。容易だと思ってばかりでは、必ず困難だらけになる。だから、聖人は容易なことさえ難しいと考えることで、常に難を逃れるのだ。

64章

安静なうちは維持しやすく、兆しが無いうちなら対策しやすい。脆いうちなら切り分けやすく、小さなうちなら散らしやすい。

起こる前に芽を摘み、乱れる前に事を治める。ひと抱えの大木も毛のような苗から始まり、九層の塔も一杯の土から始まり、千里の道も足元から始まるのだから。

(一方で、人々に)余計なことをすれば変質してしまうし、強制すれば(純粋な心が)失われてしまう。聖人は干渉しないから何も壊さないし、強制しないから何も失われない。人々は、いつも成功を目前にして失敗する。終わりも始まりのように(欲望を)慎めば、失敗することはない。

だから、聖人は欲を出さないようにして、珍しい財宝をありがたがらない。そうした教えない教えをして、人々に失ってしまった素朴さを思い出させる。このように聖人は、人々があるがままであるように助けるだけで、余計な事はしないのだ。

【注】「千里の道も一歩から」の出典。

65章

昔の良く道を修めた者は、民衆に知識を与えたのではなく、無知のままにしたものだ。民衆が争うのは、彼らが(他人を)知りすぎるからだ。

だから、知識を用いて国を治めるのは、国の害だ。知識を用いずに国を治めるのは、国の徳だ。この両者を知ることは、常に原則を知っていることであり、それを深遠なる徳と言う。それは深く、遠くへ行き、人々と共に帰ってくる。そうして、全ては道に従うのだ。

66章

大河と海があらゆる川の王者なのは、川より下になることが出来るからだ。聖人が民衆の上に立つのは、(謙虚な)言葉でへりくだるからだ。民衆の先を行くのは、(謙虚に)身を退くからだ。

そうすれば、聖人が上にいても民衆は重いと思わないし、前にいても邪魔とは思わない。だから、天下の人々は彼を喜んで推戴し、嫌がることはない。そうして聖人は争わないから、誰も彼と争うことは出来ないのだ。

67章

天下の人は、私のことを大人物だが愚かに見えるという。そもそも、愚かだから大人物になれるのだ。もし賢かったら、小人物にしかなれなかっただろう。

私は、常に三つの宝を持っている。一つ目は慈愛、二つ目は倹約、三つ目は他人を追い抜こうとしないことだ。慈しむから勇気が出るし、倹約するから豊かになるし、追い抜かないから先を譲られる。

今、慈愛を捨てて勇気を出そうとし、倹約をやめて豊かになろうとし、後ろにいるのをやめて追い抜こうとすれば、死ぬだろう。

全く、慈しんで戦えば勝ち、守れば固い。慈愛のある者は、天に救われるのだ。

68章

優れた武将は勇ましくなく、優れた戦士は怒らず、優れた勝者は争わず、優れた上司はへりくだる。これを争わないことの徳、人を使うことの力、天に並ぶ昔からの極意と言う。

69章

兵法にこういう言葉がある。私は主体になろうとはせず、客体になる。一寸も進もうとせず、一尺退く、と。

これを無い足で行き、無い腕をまくり、無い武器を手にすると言う。つまり無敵だ。

(しかし、武力で)無敵となることほど大きな災いはない。そうなれば、ほとんど死んだも同然だ。だから、兵を挙げて対決すれば、悲しむことが出来る方が勝つのだ。

70章

私の言うことは理解しやすく、実行しやすい。天下の人々はそのことを知らないから、実行することも出来ない。

言葉には根本があり、物事には主体がある。(天下の人々は)そのことを知らないから、私の事も知らない。私を知る者が少ないから、私は尊い。だから、聖人は粗末な格好をしながら、懐に宝石を抱いているのだ。

【私見】この章は、冒頭の句とは裏腹に理解しがたい。20章と同じように、他人に理解されない苦しみから出たものだろうか。

71章

知らないということに気付いているのが良く、知らないのに知っているとするのは欠点だ。聖人に欠点がないのは、欠点を欠点と認めるからだ。そうすれば、欠点を克服できるのだ。

72章

民衆が君主を恐れなくなれば、とても恐ろしいことが起こるだろう。民衆の住む土地を狭めてはいけない。民衆の生計を圧迫してはいけない。圧迫しなければ、嫌がられることはない。

だから聖人は、自分を知っていても見識を誇らないし、自分を愛しても高貴さを誇らないのだ。

73章

勇敢な者は死に、勇敢ではない者が生き延びる。その両者の利害は分かっても、天に見放された理由が分かるだろうか。だから聖人にさえ、この問題は難しい。

天の道は戦わずに勝ち、言わずに応じ、招かずに来て、緩やかなのに良く計算されている。天の網は広く粗いように見えて、何も漏らすことはないのだ。

【注】「天網恢恢、疎にして漏らさず」の出典。

74章

もし民衆が死を恐れなければ、どうやって死で脅すのか。もし民衆が常に死を恐れるなら、異常なことをする者が現れ、私が捕らえて殺すとしても、そんなことが起こるだろうか。それは、常に天罰を下す者がいるということだ。

天に代わって人を殺すのを、上手い木こりに代わって木を切ると言う。そうする者が、自らの手を傷付けずに済むことは、ありそうにない。

75章

民衆が飢えるのは、君主が重税を課すからだ。民衆が治まらないのは、君主が余計なことをするからだ。民衆が危険を犯すのは、(貧しいために)豊かな生活を求めるからだ。

全く、自分の生き様にこだわらない者は、そうでない者に勝るのだ。

76章

人は生きている時は柔らかいが、死ぬとこわばる。草木は生きている時は柔らかいが、枯れると固くなる。つまり、固いものは死者で、柔らかいものは生者だ。

だから、兵士は強くても死んでしまうし、丈夫な木は(人に)使われてしまう。強大なものは下で、柔弱なものは上になるのだ。

77章

天の道は、弓を引くようなものだろうか。上の端は押し下げられ、下の端は引き上げられる。

つまり、天の道は余っている者から減らし、足りない者へ補う。しかし、人の道は足りない者から減らして、余っている者に捧げる。誰が余っている者から、天下へ捧げることが出来るのか。それは道を守る者だけだ。

78章

天下に水より柔弱なものは無い。しかし、固いものを削るのに、水より優れたものが無いのは、水を削れるものが無いからだ。弱が強に勝ち、柔が剛に勝つのは、誰もが頭では分かっていても、実行することは出来ない。

だから聖人は言う。国の汚辱を甘受するのを、国家の主と言う。国の不吉を甘受するのを、天下の王と言う、と。正直な言葉は、嘘のように聞こえるものだ。

79章

大きな恨みを和解した所で、恨みは必ず残るものだ。どうしてそれが良いことと言えるだろうか。

だから、聖人は借金の証文を持っていても、返済を迫らない。徳がある者は契約を信じ、徳が無い者は税のように取り立てる。天の道に親愛はないが、他人に恨まれない者は救われるのだ。

80章

国を小さくして、人口を少なくする。武器があっても、使わせないようにする。民衆に命を大切にさせ、移住しないようにする。そうすれば、乗り物があっても行く場所は無く、兵士がいても布陣する場所は無くなる。

民衆には(文字の無かった時代のように)結び目を使わせ、地元の食べ物や衣服、住居、文化を良いものとする。そうすれば、隣の国が見え、鶏や犬の鳴き声が聞こえても、民衆は生涯故郷を離れないのだ。

【注】「小国寡民」の出典。

81章

誠実な言葉は美しくない。美しい言葉は誠実ではない。優れた者は雄弁ではない。雄弁な者は優れてはいない。(要点を)知る者は博識ではない。博識な者は(要点を)知らない。

聖人は何も蓄えない。全てを人々に施し、ますます満足する。全てを人々に与え、ますます豊かになる。天の道は、利益を与えるのに害を加えない。聖人の道は、助けても争わないのだ。

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