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20210927_子どもが劇的に変化した話。

以前、こんな記事を書いた。

子どもの日常的な態度というのは、昨年出会った頃に比べれば、この春先にもだいぶ軟化していて、もっと色々できるようになるだろうなあ、と考えていた。

そして、案の定、今年度になってからできることが格段に増えている。

まあもちろん、そのために私も色々働きかけを頑張ったつもりなのだが、その中でも、これがきっかけなんじゃないの~?と思うポイントはある。
そのポイントについて、ちょっと書いておきたい。

他人の存在を現実感を持ったものにする

これはどういうことかというと、長らく不登校状態にあり、なおかつ家族とも、家族以外とも殆ど喋らない状態が数年に渡って続いていたため、他人を現実感のある存在として、実は認識できていなかったのでは?ということに、とある出来事が起こってから気づいた。

去年から、私に対する態度が、よく言えば甘え、悪く言えば舐め切った状態になっていた。(まあこれはどの子どもでもそうなので、私にもそうさせている要因はある。下記参照。)
その事自体は、そこまで気にするべきものでもないと考えていた。
舐められることは、人によっては烈火のごとく怒ることなのかもしれないが、私は、「舐められる」ことで相手の心理的ハードルを下げて、「大人・先生」という枠組みを取り外すことができると考えているからだ。(でもそれが割と諸刃の剣だなというのは、やってきてやっと理解できてきた。)
とはいえ、その状態で1年ほど経ち、本人の機嫌がいいときは積極的にコミュニケーションを取りたがり、気分が乗らないときはこちらの問いかけを一切無視する、という状態が連続することがあった。
その中で、今回私が一つの契機では、と考える出来事が起こった。

それは、上記の「本人の都合によって、私に対する態度が一変する」ことに起因するもの。
何日か連続して、そういう事が起こっており、こちらからの働きかけを無視されることが続いていた。そうして、ある日、あまりにも我慢できないことが起こった。
その内容自体は詳しく書かないが、流石に私も我慢の限界だと感じた。

だから、本人に向かって一言二言、いうべきことだけを伝えて、部屋を出ていってしまった。
正直、もう無理だわ、と思っていたので、涙声になっていた。
それくらい、こいつは他人のこと(というか私のこと)をないがしろにしてもいいと思っているんだ、ということが失礼すぎるしそんな扱いをしていいと思っている常識の無さにもショックを受けていたから。

ただ、これ以降、本人の態度も明らかに変わっていった。

私も傷つくことがあるし、本人の言動で傷つけられていることがある、という話をする機会を設定し、今回の出来事だけではなく、それ以外にも気になっている点をいくつか絞って伝えた
そうすることで、やっと、私のことを「実際に傷つくこともある生身の人間」だという現実感が持てたんじゃないだろうか。

そういう、「他人を現実に存在するものだとして認識する」ことが、本人には必要だったんだと思う
自分の中に、他者を現実感のあるものだとして落とし込む、と言ってもいいかもしれない。

未だに傷つけられることもあるし、それはちょっと違うんじゃないの、と思うこともあるけど、そういうときは、ちゃんと怒ることが私もできるようになった
去年までは、そうやって「怒る」ことを一切してこなかった。
なぜなら、去年の段階では、そうやって「怒って」もいい関係が築けていなかったから。
怒る段階までは、まだ遠かった。
今年に入って、その出来事が起こるまで、私は自分が自覚的に本人に何かを言うことはどうしても言わざるを得なかった去年の1回を除けば一度もなかったので、やっぱりそれくらいの期間を待たないと、この子どもとは何かを言い合うという関係性は築けなかったんだな~、と思う。

やっと関係が築けたことを皮切りに?

で、まあ、ある程度私を現実感のある人間だと認知できたからか、自分の言動で他人を傷つけることがあるのだと理解できたからなのか、その辺はわからないけど、そういう出来事があって、やっと、次のステップに進める段階が来たんだなー、と感じた。

そこから、去年は絶対にやらなかったこともできるようになってきた
他にもできることがだいぶ増えてきたが、ここに至るまでに数年程度かかっている。
それくらい、不登校期間の長い子どもをまた社会に戻していくというのは、時間がかかることなのかもしれない

でも、どんな子どもも、社会でやっていける力はあると私は思っている。

ただ、その力を引き出す技量のある大人と出会えるのは、正直運の要素も大きいと思っている
学校で出会えれば一番ラッキーだが、現状はそうなっていない。
私も、偶然からこの仕事に出会い、試行錯誤してきたわけだが、根本的な思いはあまり変わらない。
まあ、自分にできることの限界などもわかってきたので、めちゃくちゃ大きなことはできないが、とりあえず、今の仕事を頑張って、まあそれなりに自分の目指す方向に向かっていけたらいいな~、と考えている。

変化はもっと起こせるだろうし、そのスピードを早めることもできるだろうけど

「変化」というのは、大人側から見ると、「言われたら即座に変えりゃいいじゃん」と思いがちなものなんだけど、それって、ある程度の大人は、いわゆる社会的な訓練をずっと受け続けてきているから当たり前だと思えることだと思うんだよね。

子どもの場合は、大人の言うことにすぐ順応することに反発心もあるだろうし、納得できなければ体が動かない、という、気持ちと体の乖離というか、アンバランスさもあると思う。

まあだからこそ、「変われ」ってことを直球で相手に言っても仕方ないなと。

本当の変化は、自発的というか、内発的というべきかな、本人ですら意識してやっている場合と、本人にも意識されていない場合とで、自然と行動として目に見えてくるものだと思うので、「言ったからやるのが当たり前」みたいな、大人の都合で子どもに変化を求めてはいけないんだよね。

そういう当たり前の感覚を、子どもと長く接していたり、学校という、教師に権力を当然のごとく与えて下駄を履かせている装置が機能している場所の中で長く生活していたりすると、だんだんなくしてしまうものなのかもしれない。

やっぱり、ある程度は自省的になって、自分のやり方が正しいのか?とか、子どもの視点から見てどう思うか?とか、自分は権力を強行に行使していないか?とか、軌道修正することは必要だと思う。

それが基本的には、子どもの権利を尊重し、子どもの自発的な選択や主体的な行動を後押しする大人の態度につながると思うから。

「子どもにこうしてほしい」と願うこと自体はそれはもう当然私のエゴなんだけど、それをエゴと自覚した上で、子どもに選択権を委ねる知識や技能を習得させていくこと、習得した知識や技能で、私のエゴを打破していくことを子どもには伝えていきたいですなあ、と思うしだい。

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