千葉雅也インタビュー「書くためのツールと書くこと、考えること」後編
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「視触感」がいいという感覚
デジタルツールでの執筆には、基本的にゴシック体を使います。ゴシック体の方が、視覚情報が少ないという感覚があるので、内容に集中して書くことができるんです。明朝体の方が視覚的に豊かなので、脳に余計な負荷がかかる感じがします。執筆の最終段階では、明朝体に直して、視覚面も含めたプロダクトとして見ます。ただ、エッセイや詩など文学的なものを書くときには、最初から明朝体で書くこともあります。
stoneを使うのは、文学的なものを書くとき、つまり言葉それ自体の質感を大事にしながら書くときです。最近発表した詩「始まりについて」※3はstoneで書きました。掲載時のレイアウトも、ほぼstoneで設定したままの状態で組んでいます。なんとなくstoneぽいですよね(笑)。それから、他のツールで書いたテキストの断片を、視覚的に気持ちがいい状態で膨らませたいときにも使います。
※3 「始まりについて」、『現代詩手帖』2018年3月号
以前ツイートで、stone のことを「視触感がいい」と表現しました※4が、視覚性と触覚性が結びついているような、いわば「見書き心地」がいいという感覚があるんです。現代人にとって、パソコンは文房具とも言えるツールです。文房具の持ち心地やすべりのよさなどと対応するエディタの要素として、フォントや字詰め、ウィンドウの広さ、タイピングしたときの文字の表示のされ方などがあります。それらから得られる総合的な感覚がよいということです。
stoneは基本、縦書きで使っています。とにかく縦書きがきれいなのがいいですね。ずっと縦書きのツールが欲しかったのですが、ちょうどいいものがなかったんです。字詰めもきれいで、括弧や句読点の前後を詰めていますよね。フォントも、欧文フォントと和文フォントを混植している。egword Universalでは、フォントの混植が自分で設定できて、欧文と和文のサイズ比率まで調整できるのですが、stoneにはそれが予め組み込まれていますね。あと、文字を入力してから画面上に表示されるまでに、若干タイムラグがあるのが書き心地としておもしろい。文字に物質性が生じるんですよね。文字が若干藍色なのは、かっこいいですが、目にやや負荷があるかもしれません。僕はもう少し濃い方がいい。長文を書くのには向かない感じがするので、気分によって設定を変えられるといいと思います。
※4 「これは詩を書けるよ。小説も書けるだろう。画期的な『視触感』だ。」 @masayachiba 2017-12-5 21:23
意味性のエディタと視覚性のエディタ
stoneの核心は、印刷的な見た目を手軽に実現してくれるところにあると思います。Wordをはじめ、これまでのエディタには、視覚的にさまざまな不満がありました。だったら視覚情報を減らしてしまった方が書きやすいのではないかという極論があるわけです。Ulyssesはどちらかといえばそういうツールで、カスタマイズがあまりできず、視覚に煩わされにくい設計になっている。マニュアルでも自ら「360度セマンティック(意味性)」と謳っています。
もう一つの極論としては、非常に美しい見た目を実現してくれればそれでもいいわけです。egword Universalとstoneは、かなり高い水準に達していると思います。さらにstoneの場合は、視覚的な設定を細かく変更できないというのがポイントです。つまり、視覚情報を減らした状態に固定するのとは逆に、視覚情報が豊かで、かつ完成度の高い状態で固定するという手もあったんです。そこがstoneのコンセプトのおもしろさで、ある意味、シンプルなエディタの発想を裏返しているんです。
stoneで美しく表示されたテキストには、「できあがっている感」とでも言うべき完結感があります。それも有限性の一種だと思います。普段、画面上で文章に手を加えようとすると、いくらでも修正できてしまって作業が終わりませんが、印刷して手で赤字を入れるときにはあまり迷いませんよね。stoneで編集すると、そういった、一度できあがったものに手を加えるような感覚が得られると思います。
stoneには、本質的に長文に抗う面があるかもしれません。あまりにきれいに表示されすぎて、長々と言葉を連ねようという気持ちにならないんです。一行書いただけで、完成品に見えてしまう。だから、俳句や短歌を書くのに向いていると思います。あるいは、エッセイぐらいだとちょうどいい。物を書くビギナーの人が、ちょっとしたエッセイや詩を書いて楽しむのにも適したツールだと思います。
「閉じ開いている」表現に興味がある
子どもの頃は、美術系の学校を出た両親の影響もあって、絵を描いたり、オブジェを作ったりすることが遊びでした。そこから言葉の仕事に入っているので、言語作品も基本的にプラスティックアート(造形美術)として捉えている部分があるんです。僕にとって言葉は、形や音、フォントも含めて一つのオブジェクトなので、それをどう配置するかが問題になります。そしてそれは、意味をどう伝えるかということと不可分なんです。だから、言葉を純粋意味だけで扱うことは基本的にありません。
言葉に対する意識は、論文を書くときと詩やエッセイを書くときで全く別というわけではなく、地続きにつながっています。ただ力点がどこにあるかという違いです。たとえば、最近『新潮』に発表した日記※5がけっこう気に入っているんです。それはエッセイのようでありながら、途中に俳句や短歌も挟まっていて、論理的考察も含まれている。あれは、自分の仕事が総合的に入っているもので、実験作だったなと思います。今後、このフォーマットでなにかできないかと考えています。
僕は、その人の持っている「症状」が表れている文章に興味があります。ある種の病の表現ということです。病というのは、ネガティブな意味ではありません。なにかその人の深い「享楽のあり方」のことです。人には、なんらかの享楽に閉じこもっている面がある。しかし、閉じていることが開いた形で表現されている、「閉じ開いている」ような表現を、いい作品だと感じます。それは、その人の存在が表れている文章ということ。ある書き方しかできないということが、大事なんだと思います。
※5 「創る人52人の『激動2017』日記リレー」、『新潮』2018年3月号
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