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一昨日の粉瘤の手術に、同じく一昨日始まった気分下がるデーにやられ、昨日はろくに勉強できなかった。
気晴らしにとか言って期末前に小説を読むものではない。話の続きが気になるし、読んでいると時間が溶けるから寝るのも惜しくなってしまうし。よくないな、自制しないと。嗚呼、自分の趣味の幅がまた狭まった。前までは時間がないことを理由に読書が趣味でないことを嘆いていたのに、実は時間のせいではなく、私の本業である勉強との相性がとことん合わないだけなのかもしれない。金曜日、粉瘤の手術後にご褒美だと意気込んで、たまに立ち寄る本屋の法律書のあるフロアの一つ下、小説がずらりと並ぶフロアに足を踏み入れて、前よくやっていたように棚をじっくりと見つめて、これだと思ったものを手に取るということをやってみた。夏フェアと称して(世が夏休みに入るからだろうか?)たくさんレジ前に陳列され、書店員さんのポップがついた本たちの中から一冊、久しぶり、本当に久しぶりに寄った短歌のコーナーで、4月ごろにほしくて結局買えなかった短歌集を一冊、そして平積みされていた本の中から大好きな作家の本を見つけたので、これをまた一冊。この最後の本を一昨日昨日で読み終わったけれど、続きが気になるばかりに急いて読んでしまったのが愚策であった。ゆっくり読むべき本であったし、その作家さんの書き方として、そうであるべきということは重々承知していたはずだった。でも、久しぶりの小説だし、勉強中気になるのよくないし、とかよくわからない言い訳をつけて、400ページ強を2日で読んでしまった。ちゃんと味わえた気がしていない。塗り絵を2色くらいで、はみだすのも気にせずとりあえず完成させたような気持ちだ。もう一度読めばいいとかそういう問題ではなく、「読む」という作業を丁寧に行えなかった読者としての自分が嫌だ。嫌いだ。やっぱり小説は時間がある時にゆっくり味わいながら読むものであって、今回の私のようにガーーっと掻きこむものではない。ひどく後悔している。夏フェアの本は期末が終わった後、ゆっくりと読もう。

短歌のコーナーに行き、その短歌集を見つけた時、旧友と再会したような気持ちになった。しばらく忘れていたのに、一目みれば思い出す感覚。自然に手が伸びて、中を開いて最初にみた短歌で、なぜか泣きそうになってしまった。恋愛の短歌だった。私は、短歌を目にするとよく泣きそうになる。小さい子供のように、顔をしかめてしまう。なぜなのだろうか?31字に凝縮されている分、密度が濃いのだろうか?小説で泣きそうになったことも何回かあるが、短歌はその回数が桁違いに多い。
短歌にはよく、見えない相手がいる。その相手を自分の心にいる誰かに重ね合わせる余白を、短歌はその少ない文字数で持ち合わせている。だからなのかもしれない、もう忘れたと思っていた相手や、埃を被りかけていた記憶が、短歌を読むとまた色鮮やかに私の目の前に飛び出してくる。もうそれが手に入らないことの悲しさに、泣きそうになるのかもしれない。もう行けない場所。行けない場所というか、行ったとしても当時とは変わってしまった場所。もう会えない人。連絡手段はあるけれど、連絡する用もないし、何を言えばいいのかもわからない人。または、連絡手段すらなく、消息不明な人。これらがすべて、1年前、2年前、5年前には、私の生活に色濃くいたものたちであり、人たちなのだ。短歌を読むと、たびたび苦しくなる。

人に依存してしまうことを直したい。自分が辛くなった時に、その人が常にいてくれると思うことをやめたい。そんなわけないじゃないか。みな一人の人間なのであって、私だって御多分に洩れずそうだ。そんなことはわかっているのに、楽しい、安心する、嬉しいという気持ちは麻薬のようで、それを提供してくれる人のそばに常にいたくなってしまう。そして、だいぶ引き返せないくらいまできた時に、その人に依存してしまっていることに気づくのだ。これを人は「好きになる」と表現するのかもしれないが、だし、実際そうなのかもしれないが、そういうときにときめきが伴うわけでもないし、自分だけのものにしたいとかもそこまで思わない。いや、でもその人が他の人とずっと一緒にいるようになって、自分の近くに居られなくなると苦しくはなるのだから、独占はしたいのか、、?いや、独占ではないんだろうけど、少しばかり私の居場所をとっておいて欲しいのだと思う。うーんやっぱりこれは客観的にみたら好きになることと同義なんだろうな。そうではないはず、でもじゃあ好きってなんだ?難しい。でも、私が短歌を読んで苦しくなるときに、頭に思い浮かべている人は、少なくとも私を苦しめられるくらい一時は私の心を握っていたのだから、かつて好きであった人なのかもしれない。

人としての魅力と、恋愛対象としての魅力の区別がつかないのは、果たしていいことなのだろうか、悪いことなのだろうか。性別かかわらず、私は多分人のよいところも悪いところも見抜くのに長けている。だから、素敵だと思ったことはすぐに口に出していってしまうし、嫌なことも堂々と指摘してしまうところは昔から変わらない。いいところが多いと思った人とは、自然と一緒にいたくなる。でも、どこまでが友情として許容される近さで、どこからが恋愛対象でないと許されない近さなのか、自分の物差しがはっきりしないし、ましてや相手の物差しなんてもっと解読不能である。
だいぶ前、人として尊敬できつつ無邪気なところもある、話も合う、そんな人と距離ばかりがどんどんどんどん縮まっていって、ある日他の人と付き合うと言われた時、なんだか肩透かしを食らった気分になった。別に付き合いたいかと言われればそうでもない(パートナーとしては難しい点が多いように勝手ながら感じていた、非常に勝手である)が、じゃあ、あの距離の近さは友情の範疇の中にあったということなのか。にしては、近すぎやしないか、、、?おそらく私にパートナーがいたことがその人にとっては免罪符のようになっていたのかもしれない。色々考え始めると、なんだか複雑な気分である。向こうは私を恋愛対象外に置いていたのだろうが、それにしては私のことを肯定しすぎやしなかったか、いや人によってはそこの線引きがはっきりとできる高尚な方々もいるわけで、無論私はそうではなく、素敵だと思うことと、友達として近くにいたいことと、恋愛的に惹かれることの区別がついていないから、いなくなった時に予想以上の打撃を喰らってしまうのかもしれない。いや、それは友情愛情とかの区別から打撃の大きさが決まるのではなく、それこそいかに私がその人に依存していたかによって決まるのだろう。「この人にしか言えない」の数とか、「私しか知らない(と思っていた)」の数とか、交わした約束の数とか。代替不可能な存在になってしまったらおしまいなのだろう。それだ、代替不可能性だ。一般的に恋人はかけがえのない存在だし、そこは私も世間一般とずれはないのだが、私は多分その貴重さを他の人にも見出してしまうのだと思う。友達は、言い方を悪くすれば比較的代替可能であるのかもしれないが、私にとっては身の回りにいる人、その一人ひとりの貴重さ?が高いのかもしれない。いや、そんな素敵できらきらしたものではなく、単純に好きであることを認めたくないだけなのかもしれない。わからない。でも、多分、今私がつらつら書いていることは大多数の人にとっては都合の良い解釈にしか聞こえないであろうし、私も自分の都合よさはよくわかっている(それゆえに喜んて都合に駆り出されることもしばしばある)。私が一番私を理解しているからこそ、細かいはてなが浮かび上がってきてしまい、さらに謎が深まり、結局私が一番私を理解していないのではないかとさえ思う。

論理的に物事を考えることは好きだし、おそらく得意の部類に入るのであろうが、このことに関しては考えても考えても、こうやって文字に起こしてみてもわからない。迷路にいるとして、行き止まりで立ち往生しているのか、同じ道をなんどもいったりきたりしているのか、違うルートをたどりつつ結局同じ場所に戻ってきているのか、わからない。わからないのだ。わからないし、考える体力にもだいぶ限界がくる。だから、私は諦めてしまう。時の経過という弱くも確実な波に、迷路ごと押し流してしまう。

だが、短歌はそんな私を見逃さず、31字でまたこの迷路に引き戻してくる。私が過去に答えきれなかった問いや、消化しきれなかった感情、言葉にしきれなかった想いを、素知らぬ顔で、何年か越しに、私に突きつけてくる。その時に私が感じるのは、上述のような悲しみと同じくらいの懐かしさなのであって、ノスタルジーなのだ。だから、私はおととい本屋で短歌集を買ってしまったのだろう。「そんな記憶、どこにしまっておいたの」と言いたくなるようなあの日の思い出を引っ張ってこれるような歌に、しかめっ面を向けるのだろう。そして、あの日にいたあの人のことを考え始めて、迷路にはまって、わからなくなって、ふて寝する。



そんな日々を繰り返す。もうすぐ23歳になる。


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