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無駄なもの

数年前に日本に越してきたインド人の子と、友達になった。
彼女はこのまま日本で暮らしたいと言っていた。
なぜ?と聞く私に、彼女はこう答えた。

"Because everything is systemized in Japan"
「だって日本では全てがシステム化されているから」

彼女の働くカフェでは、
ドリンクにいれるコーヒーや牛乳の量が
1ml単位で決まっているらしく、
1mlでも多く入れてしまったら最初からやり直しになるのだそうだ。

「その機会的な几帳面さに日本の美徳が詰まっていると思う」

彼女は目をキラキラさせながらそう語った。
みなさん、どうだろうか。
私はこの几帳面を窮屈に感じる瞬間がたまにある。

一番わかりやすいのは、遅刻。
私は遅刻魔である。本当にひどい遅刻魔である。
アルバイト先の打刻は、1分でも遅れたら遅刻扱い。
私にはこれが窮屈で仕方ない。
エレベーターがこなかったかもしれないし、
並んだコンビニのレジが混んでいたかもしれない。

「そりゃあんた、大人なんだから」
「家を早く出ればいいだけの話」
至極真っ当である。すみません。
でも、私にはそれがなぜかできない。

この几帳面さは、頑固さとも言えるかもしれない。
「そのくらい、いいか」ができない。
柔軟に対応することが難しい。だから、変化も訪れづらい。
いまだにハンコ社会から抜け出せないのはそのいい例だ。
「別にこれでもいいんじゃない?」がない、四角い枠の中に収められる日々。そりゃ精神もすり減るわな。

効率化を求め、完璧を求め。
ゆるさとは無縁の、無駄を鋭く省く社会。

そんな日々をこなす人で溢れた夕暮れの電車は、
グレーの空気が重く漂っているように見える。
四角の中に入ろうと苦戦して、
入れなければ仕組みではなく自分を責めて。
周りを見る余裕もなくなり、
唯一の娯楽は通勤中の電車の中で見る携帯。

空が綺麗なピンク色に染まっているというのに、
私以外に視線をあげる人はいない。
それが、日本社会で生きるということなのか。

なんて、信じたくないよな。
そんな生き方の回避方法、あります。

「無駄を見つける」こと。

少し回り道をして帰ってみる。
気になっていたコンビニスイーツを買う。
近所の散歩中の犬を愛でる。
深夜3時に1人でカラオケ(口パク)大会をする。

そんなのやってどうするの?と言われるようなことを、やる。やってみる。

それが、心に余裕を持たせてくれる。
「まぁ、四角に入ってやるかぁ」と思わせてくれる。
明日の私を、作ってくれる。


無駄なことは、案外すぐそこにある。
無駄を大切に。


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