心のモジュール性と「無我」
今、courseraで"Buddhism and Modern Psychology"(仏教と現代心理学)という授業を取っている。仏教が「自分という概念は幻だ」というのを現代心理学がどう解釈するか、というトピックで「心のモジュール性」という概念を学んだ。
心のモジュール性という説明は進化心理学の範疇にあるのだが、簡単に説明すると、心は進化論的に必要な機能を果たすモジュール(基礎単位)の集合であるという考えだ。
例えば、自己防衛に関するモジュール、性的パートナーを引き付けるためのモジュール、そうやって脳の各分野はともに働き、進化に必要なモジュールとして役割をはたす。そして、そのモジュールの集合体が我々の心だ。
そう考えると、我々の心というのは一人のCEOがいて、その人が決断を下すようなものではない。心はモジュールの集合でしかなく、「これが心だ」というものは一つもないのだ。我々は世界をわかりやすく理解するためにそのモジュールの集合を「自分」と称しているだけである。
だから、実際に心を部分に分けたときに、「さあどれが自分でしょう?」と言われても自分はない。なぜなら各機能を果たすモジュールしか存在しないからだ。
Robert Kurzbanは、"Why Everyone (Else) is a Hypocrite", でDan Dennett氏が我々の意識のことを「PR」と呼んだことを説明している。意識というのは、我々が「自分」を他者に宣伝するためにあるものである。と。
要するにモジュールの集合は、意識に「自己」という概念をもたせ、そして他者に「自己」をアピールさせる。これは生存と自己複製の確立を高めるためである。だから、結局我々が「僕」、「私」、「俺」などと言うのは結局進化論的にみると自分を周りに広告するために作り上げられた概念に過ぎない。
ブッダが、五蘊を通じて無我を主張したことへの解釈には賛否両論がいまでも仏教界で残っている。ブッダは、自己はあるともないともいうことができない、と言ったという記録もあり、無我の概念はなんとなく論理を超越するような概念とも捉えられる。「無我を言葉で表現しようとしたら頭が爆発する」と言った有名な仏教徒もいるらしい。結局「自己」があるにしろないにしろブッダは「自己」という概念が執着に繋がるということを言いたかったのだと私個人は解釈している。
仏教が述べる「執着」というのは、進化心理学から見ると遺伝子を次世代につなげるために我々の脳が感情を使って我々を操作することである。感情というのは我々を遺伝子を次世代につなげさせるためのツールなのだ。怒りも、悲しみも、孤独も、喜びも、恐怖も、全部なんらかの形で我々を進化で生き残らせるための行動への動機づけとなっている。
「自己」もその延長なのだ。脳が進化で生き残るために作り上げた概念に過ぎない、だからブッダは自己を幻だと捉えた。世界の本質を見るのに自己は不必要である。
こうやってみると、仏教のすごさを毎回痛感する。
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