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どう差別と向き合うか-woke culture & cancel cultureを見直す

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本文に入る前に誤解を招かないように一応申しておくが、マイノリティへの差別は確かに残酷である。一刻も解決に向かうべきである。

差別には言葉や暴力による直接的なものもあるが、特に恐ろしいのがSystematic(システム化した)なものだ。例えば、今のアメリカでは人種差別者を名乗るものは少ないが、差別化されたシステムが作り上げた社会を我々が生きていることには変わりはない。

黒人やヒスパニックの人たちが白人と比べてより貧困地帯に住んでいたり、政治的にも企業的なセッティングにおいても参加する機会を得られていないのはシステマティックな人種差別が残す大きな傷である。それに加え、人種に対する歴史的な偏見やステレオタイプは現代でもしっかり残っており、同じ罪でも黒人のほうが刑が格段に重くなったりすることも多発する。これは司法のシステムにまで人種差別はまだしっかり残っている証拠である。

これはアメリカに限られたことでなく、日本における女性差別のように全世界がともになくしていかねばならぬ現象であることは言うまでもない。____________________________________

私の住んでいる市は進歩党の人がマジョリティであり、米国有数の多様性を誇る。

学校の人種の割合をみると、39%白人、30%黒人、14%ヒスパニック、12%アジア人であり、アメリカ全体の人種構成(白人57.8%、ヒスパニックやLatino18.7%、黒人12.1%、アジア5.9%)と比べると格段に多くの人種がより均等に分布している。

人種的にも国籍的にも多様性に恵まれた地域である僕の学区は、アメリカの中でも特に、教育の中でマイノリティへの差別をどうなくしていくかという問題に力を注ぐ。

例えば、国語や社会などの人文系の授業全てで、なにかしらの差別の残酷さを示す内容が示される。芸術や哲学の授業でも同じである。

もちろん、こうやって教育に差別はいけないということを組み込むのは大事だと思うが、ただ、それに毎回毎回単一的に感じる。差別の残酷さを語って、いけないよね、っていうのの繰り返し。もう少し思索的なアプローチも組み込んだら面白いのでは?とも思う。

例えば、もし私たちが数百年前の奴隷制度真っ盛りのアメリカ南部に白人として住んでいたら、ほどんどの人たちは差別に対してなんとも思わなかったであろう。最近の心理学の研究でもどんどん明らかになっているが、環境的な影響が我々の心理にひきおこす影響はとてつもない。自分が絶対にしないだろうと思っていることでも、環境によってはやってしまう人間の残酷な本能はどんどん明らかになってきている(もちろんこれが差別を正当化するわけではない)。そうした時に、なぜ人間は差別をするのか?どういう環境が我々をそういった行動に貶めるのか?といった議論はものすごく建設的なのではないか。

また、人間の道徳観というのは極めて相対的である。ある時代に許容されていた行動が次の時代には全くもってタブーとなったりもする。そういった時に、どうやって差別のない世界を維持していくか、差別をどう倫理的に解釈するか、そういった議論もものすごく大事だ。

ただ、それをいざ一緒に高校に通う友達たちに提案してみると、皆に「人種差別者、性差別者的発言」と言われた。

「そんなこと言ったらだめだよ?」

「あなたは白人のハーフで男だからそんなこと言ってる暇があるのよね、差別でくるしんでないから。」

「人が差別によって死んでるのに、哲学の話してるの??意味わからない!」

今アメリカに広く浸透している、社会問題に対して注意を喚起する風潮は大事だとは思うが、行き過ぎたものが私の学校に多いと少し感じる。(もちろん行き過ぎたというのは主観的であるが)。

多分なぜ私の意見がそんなに批判を浴びるのか、色々な人に聞いてみたのだが、大体二つの理由にまとまった。

1)私は男性であり、LGBTQには属していなく、半分白人である。そのため、歴史的に見てはアメリカでは人々を抑圧してきた人種と性に属してあり、意見を言える立場ではないということ。

2)差別系の話は、センシティブな話であって、特にあいまいな発言をすると、変な意味に捉えられて間違ったレッテルを貼られることがあるから、公で話すことではない。

1も2もなぜ私の言ったことが「差別」なのかの理由になってないが、どっちみちどちらも同意しかねない。1)私の言ったのは別に差別の人の苦しみを無視するような発言ではない。むしろ、差別による苦しみをなくそうとしていったことである。2)センシティブな話題だけれど、大事な話題である。もっといろんな観点から差別を見てみることは、差別を減らすために必要不可欠なのでは。

そしてさらに驚いたのが、統計をつかって自分の論点を裏付けようとしたときに、ただ"no"といわれて無視されたことである。似たようなことは何回か起こった、統計を見ようともせずただnoと言ったのである。

挙句の果てに、差別はいけない!とSNSでたくさん主張しときながら「白人の男性は気持ち悪い人ばっかりだ」、「男はみんなくそだ」と自分の真ん前で平気で言う友達もでてきた。そう言った発言は別に「差別者」扱いされない。確かに男性が女性をけなすこと、白人が黒人をけなすことは歴史的に見て反対のケースよりも深刻である。ただ、差別の本質が属性による不当な扱いや一般化であるならば、差別をなくそうとしながら上のような発言をするのは本末転倒ではないか。

もはや、宗教のようになってないか。統計のような事実を無視し、少し「常識」から外れた発言をすると黙れと言われ、挙句の果てに差別をやめろと言っときながら自分も差別発言をしている。もはや自らの主張を絶対視し、批判的に見る余地すらない。

もちろん、自分の周りにいる多数の人がこうだからといって、アメリカ全体の若者がそうというわけではない。少し自分が感情的になりすぎている部分もあるかもしれない。

ただ、同時に、こういった若者による自らの道徳観を絶対視し、それにそぐわないものを排除する勢力は大きくなりつつあるのは事実だ。

アメリカのエバーグリーン大学では、一年に一回人種的マイノリティの人々が自主的に学校を休んで自らの大学への貢献を表すという行事がある。しかし、2017年に大学側が「白人が学校を休んだら?」と提案した。それに対しBret Weinstein 教授は、「あるグループの人が自ら決断をし、行動をとることと、あるグループがもう一つのグループに~するなということは本質的に異なる」と大学に抗議の文章を書いた。最終的に、彼は生徒に「人種差別者」とレッテルを貼られた挙句、生徒たちが大学の事務所の前に立ち「人種差別者はでてけ!」と叫ぶという事態に発展した。

より多くの若者が自分の道徳観を絶対視する傾向は危険である。道徳観の同調圧力に巻き込まれ、結果論理の通用しない抑圧的な社会に繋がってしまうからだ。

さぁ、アメリカの社会はどこに向かうのだろう。今の学生らが大人になり、政治の実権を握ったとき、何が起こるのだろう。

もちろん、差別をなくそうと(ちょっと行き過ぎる集団を含め)奮闘している学生もいる中、白人至上主義的な家族で育った人もたくさんいる。残る白人至上主義的思想をどうやって消し去ってくかはアメリカの大きな課題であることは間違いない。

差別をなくすことはできなくても、最小限にするためにどういう措置をこれから社会が取っていくのか、これは我々の未来を規定する大きな要因となるだろう。













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