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エッセイ祭りの渡米生活

(アメリカは〜 というSNSの発信はもはや最近clicheに思えるのだが、貴重な経験だったので書き記したい。)

自主的な作文を始めたきっかけは?と言わたら、なんとなく。としか答えられないが、渡米した高校生活で作文への苦手意識が消え去ったのは大きな理由だろう。日本にいた中学時代までは作文を書いたのは夏休みのときくらい。原稿用紙数枚分の読書感想文を一年に一回くらいだ。もちろん当時はめんどくささ一心で作業をし、その意義など軽視していた。

高校に入ってからは書く量が劇的に変化した。教育方法の違いなのかもしれないが、アメリカの教育は作文に重きを置く。特に、人文系の授業は特に作文が多い。歴史にしろ、英語にしろ、哲学にしろ。

だからこそ、来た当初は愕然した。日本で夏休みをかけて書いていた量を一日で書かねばならない日々が続いたからだ。バイリンガルで育ったといえ、アカデミックな作文は一切書いてきたことがなかったため、苦戦した。最初の半年くらいのエッセイを今見返してみると、表現が幼稚で可愛い。言いたいこともうまくまとまってなく、なかなかAが取れなかった理由も納得できる。

ここ三年で歴史の授業は3つ取ったのだが、テストはすべてエッセイだった。今年取った世界史の授業は、書く量が特に多かった。テストでは、90分の時間で7つの資料を読み込み、原稿用紙数枚分のエッセイを書く。資料に応じたテーマ(近世国家が宗教的寛容を使って国家の安定を図った度合いを評価しなさい など)に応じて、自分の知識を使って資料を関連付け、応用する。こういう学力のアセスメントは一石二鳥な気がする。エッセイというのは思考力、応用力、そして知識などあらゆるものを包括するからだ。

そうして、学校の宿題をこなすこと2-3年も立つと、だんだん作文は苦じゃなくなっていった。思考の整理がうまくなったし、表現力も進歩した。苦手意識の解消により、何か思いついたら真っ白なgoogle documentに書いてみる という習慣もついた。そして、日本語の作文まで上手くなっていた。

作文の面白いところは、アウトプットしてる途中に自然とアイディアが浮かんでくることだ。国語(英語)の授業で与えられたテーマに対して書くことがわからず、画面を見つめてボーッとするよりはとりあえず書き始めてみると、意外と書くことがポンポン浮かんでくる。今まで自分が思いつかなかったようなコネクションが見いだせる。喋ってると同様なことがよく起きる。ある概念を誰かに説明してるとふと概念同士の繋がりや、全く新しい見方に気づきびっくりすることがある。千葉雅也さんは彼の著書、「勉強の哲学」でこう書いている。

「アイデアを出すために書く。アイデアができてから書くのではない。」

知識というのは得てから使うよりも、使いながら習得するほうがより学習法として効果的なのかもしれない。使ってる途中に新たな発想や繋がりが生まれる中で、記憶が強化されていくからだ。そう考えると、日本の詰め込み教育は如何なものか。だからこそ何か学んだら、その内容をまとめてみるのでもいいし、それを他の分野と関連付けてエッセイを書いてもいいし、科学だったら実際に試してみてもいいし(もちろん安全配慮を忘れず)、とにかくアウトプットしてみる。

書くことは、表現の方法でもあり、学びの方法でもある。

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