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運の悪さも自己責任なのか?

現代日本ではSNSを中心におかしな自己責任論が幅を利かせているように思うので、ストア哲学の視点から少し考えてみたいと思います。

※この記事では特定の誰かの発言について述べていません。特定の誰かを批判する意思もありません。

自己責任の本来の意味

自己責任とは辞書では

じこ‐せきにん【自己責任】 の解説
1 自分の行動の責任は自分にあること。「投資は—で行うのが原則だ」

2 自己の過失についてのみ責任を負うこと。

出典:デジタル大辞泉(小学館)

となっています。

あくまで自分の行動の結果、自分の過失についての責任となってますね。
まぁ、当たり前ですが自分次第でない事の責任については触れられてないわけです。

現代のおかしな自己責任論


では、対して現代日本の自己責任論とはどんなものかというと、代表的なものに貧困や教育格差、生活保護受給者への批判などがあります。

例えば少し前ではコロナ禍で職を失った人や経営が立ち行かなくなった飲食店経営者などに対し、「不安定な職についたやつが悪い」や、「飲食店を選んだ本人が悪い」などの主旨の暴論がSNS上で蔓延していました。

これ、本当に本人の行動の結果による過失ですか?
コロナ禍については誰にも予想できないことで、それについて本人にコントロールできることは何もありません。

また、その職業を選んだ時点でそんな予測できないものに備えて職業を変えるなんて選択肢が出てくるわけありません。
「将来疫病が蔓延すると困るから飲食店はやめておくか」
なんてことを言っていたらどんな商売も成り立たないし、どんな職業も存在できなくなってしまいます。
将来起こるかもしれないありとあらゆる大変事に備えてその選択肢を避けるわけですから、誰もが一歩も動けなくなってしまうからです。

それから、家庭環境やその時点での景気動向のせいで安定した職業に就けなかった人に対しても、本当にその人だけの責任を追求できるでしょうか。

恵まれない環境でも自分次第でないことを気に病まず、自分次第の行動に集中し、その時点で最高の選択肢が不安定な職業だった人に対して、職を失ったのは「お前の自己責任だ」と本当に言えるでしょうか。

自己責任論者は運良く安全圏にいる部外者?


こういった自分次第でない外部要因によって不利益を被った人々に対し、SNSなどで「自己責任だ」と言うのはどんな属性の人か勝手な推測をします。

少なくとも当事者ではないでしょう。

また、おそらくこれまでの人生で多少なりと運に恵まれた側ではないでしょうか。

でなくとも、今ある程度の安全圏にいる可能性が高いでしょう。

あくまで私の推測ですが、当たらずとも遠からずではないかと思います。

自己責任論者の誤り


SNS上で自己責任論を振りかざす人が最も見誤っていることは「特定の状況にある集団に対して、全員、もしくは大多数を同条件で一括りにしている」ことです。

例えば生活保護受給者の全員(もしくは大多数)が本当は働けるのに働かないと思っていたりする。
経済的に弱い立場にある貧困層に対して、これまでの人生で勉強や仕事を頑張ってこなかった怠け者ばかりだと思っていたりする。

中にはもしかしたらそういった人がいるのかもしれませんが、ほとんど全員がそうだ!みたいな風潮が強い気がします。

運悪くそうなってしまった人達のことをあまりに軽視、または無視した発言すら見られます。

自分にコントロールできないこと


人は生まれながらにしてそれぞれ家庭環境や周辺環境が全く違うし、持って生まれた才能や性格も全く違います。

本人が選んでその家庭に産まれたわけではないのに虐待されて育った人、虐待されずとも極貧の中育った人、学習することが困難な体に生まれついた人、就職の年がたまたま大恐慌で安定した仕事につけなかった人など、皆それぞれに事情があるかもしれません。

そこを考慮せず、「給料のいい安定した仕事についていない=本人が努力しなかったから」と短絡的な結論に至る人のなんと多いことでしょう。

それぞれ全員の人生の聞き取りをした上での結論ならまだわかりますが。
(本当に聞き取りをしたら自己責任論者は自然消滅するでしょうけど)

自己責任論は強者の憂さ晴らし


こういった背景事情を一切考慮せず、本人の努力不足だ、私はこれまで頑張ってきたから今恵まれているんだ、この世は自己責任だ、と安全圏から断ずるのはさぞかし気持ちいいことでしょう。

それは昨今のSNSでよく見る、一時的な過ちを犯した個人を、集団で再起不能になるまで正義という棍棒で叩きのめす文化にも色濃く現れている気がします。

正義は我らにあり!

自己責任以外のことも責任転嫁される


ストア哲学には自分でコントロールできることとできないことを区別する二分法という考え方があります。
ストア哲学における自己責任とは、まさしく自分でコントロールできることに対しての結果責任のみを受け入れることです。

対して、現代日本の自己責任は自分でコントロールできない不運による不利益も自分次第でどうにかできたことだと本人に責任転嫁し、それを受け入れさせること、という非常にグロテスクなものになっています。

今では政治家も一般人も強者の立場にある人は、たまたま運に恵まれなかっただけの層に対して「自己責任、自己責任」と、強者が弱者を助けることを拒む言い訳のようにこの言葉の間違った使い方をしています。

また、弱者の側も「自己責任だから・・」などとそれを受け入れるような態度をとることもあるようです。
でも、それって本当に本人の責任なんでしょうか?

どうも日本の学校教育で育つとこういう考え方になりやすいように思います。

勉強は誰でも横並び、努力すればするだけ結果が出る!!みたいな風潮ってあるじゃないですか。

これが多分、外部要因ですらも本人の努力次第でどうにかできたはずだ、という勘違いの根っこにあるんじゃないかと思うんです。

勉強ですら生まれ持った能力も、興味の対象も、家庭環境も、経済状況もみんな違うんですから、誰もが努力すれば同じ成果が出るわけなんてないんですけどね。

生存者バイアスによる錯覚


スポーツや競技、芸術、音楽に至っては凄まじい努力を積み重ねてきた天才達が連日テレビをにぎわせています。

確かに彼らはとてつもない努力をしてきたと思いますが、それを凌ぐ努力をしていたにも関わらず、彼らより才能や環境に恵まれずに日の目をみれなかった人もゴロゴロいるはずです。

スポーツ選手などの有名人の例は、生存者バイアスの最たるもので、彼らは努力をしたから成功できた→成功していないのは努力を怠ったからだ、という錯覚が起きるのではないでしょうか。

また、実際には才能などの能力差や環境の差があるので、どんな分野でも同じ努力をしても結果が同じになるとは限りません。

では、同じ努力をして結果がより出る側が、結果のあまり出ない側を「努力不足だ!自己責任だ!」と罵るのは正しいことでしょうか。意味があるでしょうか。

自己責任論のない世界に


私にとっては現代の自己責任論はとても真っ当なものには思えません。

SNSで当事者でもない人々が安全圏から、たまたま運や環境や能力に恵まれなかった人たちに石を投げるような行為はとても徳に叶った行為とは言えないからです。

どんな人でも自分の努力や行動とは関係ないところで、突然窮地に立たされる可能性はあります。

もし自分が本当にそうなったとき、「自己責任だ!」と国や政治家や自治体に見捨てられ、関係ない人たちに罵倒される社会が本当に健全な社会でしょうか。

税金を集めているのは一体何のためでしょうか。

運悪く自助がダメでも公助がある、と思える国でなければ安心して暮らせません。

自分にコントロールできることに集中し、それ以外の不測の事態は平穏な心でそれを受け入れ、冷静に対処する。

そして、自分のコントロールできない災難の時は皆に助けてもらえる。

そのような社会で暮らしたいと願うばかりです。


最後までご覧いただきありがとうございました。
他にもストア哲学の視点を取り入れた記事を書いていますのでぜひご覧ください。

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