【新刊ためしよみ】しゃーでんふろりで【悪魔ロリと死にかけ作家の百合】
いちばんやさしい地獄にいこうね。
私が小指を差し出すと、天使みたいな顔した少女が、悪魔みたいに微笑んだ。
少女が私の元へやってきたのは、死のにおいがしたかららしい。
「それって、クサいってこと?」と尋ねると、「そういうことじゃないんですよね」とぴしゃりと跳ね返された。
「死が近づいた人間からは、熟れた果実のような香りがしますから」
ソーダ味のアイスキャンディーを小さな舌でチロチロと舐めながら、目の前のツインテールの女の子は当然のように言い放つ。ランドセルこそ背負っていないが、その青紫の瞳にはまだあどけなさが残っており、大人ぶった喋り方と相まってアンバランスな印象だ。
けたたましく響く蝉の鳴き声をかいくぐりながら、うちの庭にいつの間にか入り込んでしまっていた少女は、縁側でひからびていた私の前に突然現れた。
見覚えのない少女が目の前に立っていたから、猛暑が見せる蜃気楼かと疑ったが、そういうわけでもないらしい。
少女は自らのことを悪魔と称した。
こんなにかわいい悪魔が居てたまるかとも思ったが、あまりにも容姿が整いすぎているので、逆に信憑性が高いかもしれない。
少女が私の安否を確かめるために頬まで伸ばしてきた指は冷たく、手放しかけていた意識を現実に引き戻すには十分だった。
「聞いていますか?」
「ねぇ、それってなんのごっこ遊び?」
質問に質問で返したからか、見当外れの質問をしたからか、「やっぱり聞いてなかったんですね」と少女は少し不服そうな表情で頷いた。アイスキャンディーが溶けて、その滴がアイスキャンディーを持っている少女の肘にまで伝ってしまいそうだ。
流れ落ちていく滴のゆくえをなんとなく目で追っていたら、少女はアイスまみれの指先を私の目の前に差し出してきた。その滴が甘そうで、すごく甘そうで、反射的に這いつくばって舌で受け止めてしまおうかと口を開きかけたとき、
「その前に」
静かだけどよく通る少女の甘い声が告げる。
「わたしと約束して」
あなたの魂はわたしのものになるってこと。
そう言って、少女が空いた指を折り曲げて小指を差し出すので、縋るように私も小指を差し出した。端整な顔立ちの少女は、それを受けて聖母のようにやさしく微笑む。私は祈るように少女の前で頭を垂れた。
溶けたアイスキャンディーは、少女の白い指先をなおも汚し続けている。ぽたぽたと落ちる滴がもったいなくて、口を開けておずおずと舌を差し出すと、少女は私の舌先のちょうど真上に、その汚れた指先をそっと掲げた。そのままゆっくりとスローモーションで少女の指から滴が垂れるのを目で追い続けて、待ち構えていた私の舌がそれをとらえ、たった一滴の甘い蜜を飲み下したとき、ずっと渇いていた喉が、やっと癒やされたのを感じた。
かつての私は、物語が好きだった。
物語に没入している時間が好きだった。物語を考えている間はイヤなこともすべて忘れて、いくらでも時間を潰すことができるから。
親が躾のために私を寒空の中半袖のシャツ一枚で放り出したときも、押し入れに閉じ込められたまま家の中にひとりきりにされたときも、家族の中で私だけ数日にわたって食事を抜かされたときも、物語の世界に飛び込んでしまえばつらい時間はすぐに終わった。
物語は、私をここではない場所へ連れて行ってくれた。だから私は、物語に夢中でのめり込んでいった。
そうして気まぐれに応募した新人賞に運良く引っかかり、デビュー作が土曜日の昼間の番組で取り上げられて、瞬く間に話題になった。誰もが私の作品を絶賛し、そして好き勝手に妬んで酷評した。
王道のテーマ、こんなの誰にでも書ける、ここがあの作品のパクリだから萎える、たまたま審査員の琴線に触れただけ、伏線が回収できていない、オチが投げっぱなし。
自分には才能があるのだと一瞬でも思ってしまった私が愚かだった。どんなに多くの人が私の作品を褒めても、喜んでも、面白かったと言っても、そうではない人たちの悪意に背中をズタズタに刺されて、ついには立ち上がる気力がわかなくなってしまった。創作をやるには私のこころは脆弱すぎた。
批判には耳を傾けなければいいのに。こんなに多くの人があなたを評価しているのに。担当編集の女性がいくら私にそう囁いても、十の賞賛が全部嘘で、一の非難が真実のように思えてしまう。
真っ白な紙に黒いインクを一滴落とされて、それがじわじわと染み込んで輪を広げ、決して消えることがないように、私はもとの私に戻ることができなくなってしまったのだ。
キーボードを前にして、この空白を埋めるために文章を考えようとしても、日ごとに増していく焦燥感とは裏腹に、頭の中にはなにも思い浮かばず、手を動かすことがないまま何時間もキーボードの前から動くことができなくなってしまった。なんとか絞り出した文章を読み返しても、薄っぺらで空虚で安っぽい物語にしか感じられなかった。いつしか世界のすべてがハリボテにしか見えなくなってしまっていた。私から物語はうしなわれてしまったのだ。
だから、死のうと思っていた。
デビュー作以後もいくつか出版した本の部数は、世に出すたび目に見えて減っていった。それまで私を賞賛していた人たちが落胆して離れていくのをじりじりと肌で感じて、それがなにより私を苦しめた。
物語がうしなわれてしまったことにうっすらと気づきながらも、いつか必ずもとに戻ることができるはずだと信じて、必死に細い細い糸を紡いできた。けれども、精神が追い詰められ最後の一本の糸がぷつりと切れたとき、もうあきらめよう、と思った。
うしなわれてしまったものは、決してもとには戻らない。もとの私にはもう戻ることができない。結局は、それを自分で認めるのがこわくて、ずっと逃避していただけなのだ。
だから、もうやめる。私が私に戻れないことを受け入れる。私から物語がうしなわれてしまった以上、もう私に生きていく理由なんてないのだから。
そうして具体的な自死の方法を思案し始めたころに、メリーナと名乗る少女は、いとも簡単に私を救ってみせたのだった。
*
「うちって、そうめんなんてなかったよね?」
おなかすいたな、とぽつりとつぶやくと、メリーナは「食事にしましょうか」と手際よくそうめんを茹でて天ぷらを揚げ始めた。すぐに食卓の上にできたての食事が並び、揚げ油と魚介の香ばしさがいりまじった香りが食欲をかき立てる。エナジードリンクとゼリー飲料くらいしかない台所のどこから食材を用意したと言うのだろう。
「ないしょです」
近所のお店から盗んできたとかじゃなければいいな、と危惧していると、思考を読んだかのように、
「そんなことはしませんよ」
とすぐに否定が返ってきた。悪魔的な力によるものだったりするんだろうか。
どうせ考えても答えは出ないので、目の前に用意された料理はありがたくいただくことにした。誰かの手料理なんて、食べたのはいつぶりだっただろうか。
空腹が満たされて、下がり始めた太陽を見ながら本能に従い畳に寝転がると、心地よい風が通り過ぎていった。ヒグラシの鳴き声が遠く聞こえて、夏休みの延長みたいだ、とふと思った。
メリーナは、魂を受け渡すかわりに、私にすべてを与えてくれた。
家族も友人も、もちろん恋人もいない。残っていたのは、少しの貯金と、もう誰もすまなくなった古い家。貯金がつきたら、自動的にこの命も枯れ果てていただろう。
けれど、メリーナは貯金に手を付けることもなく、私が望んだことはどんな小さな願いでも叶えてくれた。束の間の延命だ。
メリーナは悪魔だと言うけれど、私には天使にしか見えなかった。私のことを迎えに来てくれた、天よりの神の使い。などと口にすると、私と目線を合わせるように畳に寝転がったメリーナは、「まぁ、そう思いたいなら、それでもいいですけど」と困ったように笑った。
「迎えに来たという意味では、同じことでしょうね」
なら、やっぱり、メリーナは天使なんだと思う。
メリーナは、私に何も期待せず、魂以外は何も求めず、ただ私が望むままそばに居てくれる。孤独を埋めてくれる。何も書けない罪悪感に溺れてしまわぬように、「おいで」と手を伸ばして私のことを抱きしめてくれる。何もしなくて良いと言ってくれる。
それはきっと、私がずっと渇望していたもので、ずっと手に入れることができなかったものだった。
もしかしたら愛が欲しかったのかもしれないな、とぼんやり考えながら、まどろみに身を任せ始めると、メリーナが慈しむように私の頭を撫でてくれた。誰かに頭を撫でられたのは初めてのことだった。
メリーナの細い腕に抱かれながら大きく息を吸い込むと、ミルクのような甘い香りが鼻腔に充満した。
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