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一体何度アイドルに浄化されたら気が済むのだろうか

アップダウンの激しい情緒がまた、谷の底までやってきた。


一週間後に迫る期末試験に向けた勉強や期末レポートの作成に勤しんでいるはずの現役大学生が、まるでニートみたいな生活をしている。今は鬱屈した理系大学生生活を変えるべく本気で出願した編入試験の結果待ち。昨年末に妥協で色々と切り捨ててしまったせいでそのまま進級という選択肢が消え、残るは留年か編入か。天国と地獄の間で宙ぶらりんの状態にあり、何か熱心に取り組むものもない今は、あまり生きた心地がしない。当然、持て余した時間を有効活用することもできず、自己肯定感はだだ下がり。

こんな私の裏側(?)を知る由もないバ先の同僚や先輩、ママさん方との関係性が極めて良好で働きやすいバイトの時間とコメダで本を読む時間だけが、家に引きこもっていれば確実にネットサーフィンとゲームで何の生産性もなく消化される日々のQOLをわずかながら引き上げている。コメダは虚栄心からくる単なる悪あがきでしかないが。



今日はいつものコメダで朝霧咲さんの『どうしよもなく辛かったよ』を読んだ。『Z世代の等身大青春小説』なんてラッピングに収まりきらないほどに生々しい若者の心情描写に読後は何だか動悸がして、腹に溜まった黒い何かにつき動かされるようにnoteの下書きを開いた。

すると、少し危なげで沈んだ私の周りの空気をまるで換気をするかのように、窓を開けて冬の冷たい空気が入り込んでくるかのように、店員さんがお冷を注ぎにきてくれた。

音楽を聴きながらパソコンに向かっていた私も一応イヤホンを片耳だけ外し、店員さんの申し出に肯く。水が半分くらい入ったグラスに店員さんが手をかけたその時。

カタン。

その店員さんがグラスを倒してしまった。

しきりに謝りながらおしぼりで机の上を拭く店員さん。卓上に広がった冷水は幸いパソコンには到達せず、手帳と端に置いていたマフラーが少し濡れた程度で済んだ。特段怒りや苛立ちは沸かなかった。

謝罪の言葉を並べながら私のパソコンや洋服を心配してくれる店員さんに私は「全然大丈夫です…!」「とんでもないです…!」を、できるだけ柔らかいトーンで繰り返した。

こういう時にキレるような大人ではいたくない。
相手に不快な思いをさせるようなことはしたくない。
なるべく寛容で器の大きい人でいたい。

こういった考え、1人の人間として至極真っ当なものだと思う。でも、私のそういった考えは全て、いつもの自意識過剰性と自己愛からきている。

寛容で器の大きい人だと思われたい。
「あの大学生、店員さんがお冷こぼしただけなんかキレてるよ」なんて高校生の話のネタにされたくない。
こういう時も相手に不快な思いをさせないよう心がけられる自分が好きだ。


新しいおしぼりを持ってきてくれた数分後、同じ店員さんが再び来てほとんど飲み干しているコーヒーカップを指してこう言った。

「先ほどご迷惑かけてしまいましたので、こちら新しいものをご用意したいと考えているのですが、いかがなさいますか?新しい豆菓子もお付けいたします。」

純粋に「ラッキー!」と喜ぶよりも先に感じた戸惑いを私は隠せなかった。偽善なんて言葉で収めるのも烏滸がましい私にとって、そのもてなしは背負い切れるか怪しかった。

それでも結局、ありがたく新しいミルクコーヒー(しかもたっぷりサイズ)を受け取り、新しい豆菓子は持ち帰らせてもらった。

ミルクたっぷりでまろやかなはずのミルクコーヒーも、今回ばかりは少し苦かった。

なんて描写することすらも躊躇われる。自己肯定感の低い私が小説家の真似事かのように心理描写をしてしまうことを許すはずがない。


お前、ひどく面倒だな。

心の底からそう思う。けども誰かに面と向かって言われたことはない。必死に隠して、取り繕って生きていて、面倒なやつだと思われない立ち振る舞いができているという自負だけは割とある。

被害妄想は絶えないから、「どこかでそう思われているかも」という妄想はずっとどこかに引っかかっているし、相手に少し気を許してしまってこんな自分を理解して欲しくて自己開示に走ってしまった数少なくも忘れられない経験においては、相手にそう思われていた可能性が極めて高いが。


友人含め他人と言葉を交わすときはもちろんのこと、ここに書いている言葉一つ一つも、家にいる時のルーティーンも、私の一挙手一投足は全て、「こう思われたい」「こういう自分が好き」に基づいて発されるから、よほど心を突き動かされでもしない限り、自分の真意など、自分でもわからない。

当然、人とのコミュニケーションは心が疲れる。でも嫌いじゃない。むしろ好き。でもやっぱり、その場限りであれば良いんだけども、ある程度結びつきの強い関係性を構築するまでの過程がしんどすぎる。「誰にも嫌われたくない」「関係性を一層良好にせねば」という強迫観念に駆られて相手の言動にこめられる意味を気にしすぎてしまう。その点バイト先であれば、どう思われるかなんて一旦置いておいて、仕事を円滑にするため、仕事を効率良く遂行するためという明確な大義名分に従っていれば、気づくとつながりを強くできているから楽である。

ここまで読んでいただいてわかる通り、卑下でも何でもなく、こんな私に友人が少ない理由は明白だ。

それでもって、もう他の記事でも何度も書いている通り、そういう自分の嫌いな部分は勝手に自分の好きなアイドルやアーティスト、最近ではINFJという肩書きに押し付けて、勝手に共感して救われた気になっておく。

そうは言っても、このナナメな姿勢を若気の至りで済ませられる年齢でもなくなってきていて、ましてや『どうしようもなく辛かったよ』の登場人物たちは今の自分が共感したとは言っても中学生で。



帰宅後は案の定、風呂を挟んでひたすらapexに耽った。この一文を書くことすらも、自分の怠惰さをやみっともなさを全世界に露呈してしまうようで躊躇われたが。

夜の2時を回った頃。こんなようなことを考えてばかりですぐに寝付けるはずもないのに布団の中に入り、久々にTikTokを見漁った。

櫻坂→櫻坂→インディーズバンド→邦楽のおすすめ→櫻坂→INFJの特徴→綺麗な風景写真→櫻坂・・・


テンプレ化された流行りのダンスや理解のし難いフォーマットに当てはめて学生が戯れているだけだろとかという穿った古い偏見から(YouTube shortsは見てるのに)遠ざけていた媒体だったが、いざちゃんと時間をかけて触れてみると新しい発見が結構あったりで面白い。まずはTikTokのAIに感謝。

今回の気の沈みから再起のきっかけは櫻坂46 三期生、小田倉麗奈さんのブログだった。

私の高校は小説を書く課題があります。
主題に悩んで、愛と孤独をテーマにしました。

傷つくことのやや多い人生を歩んできたので、自分の半生を振り返りながらフィクションと本音をない交ぜに構成しました。
今まで感じてきたことや考えたこと、毎日少しずつ言葉にしながら書き続けて、それでも足りないピースがありました。

言葉にできない、もどかしくて時間だけが過ぎ去っていく時に藤吉さんに出会いました。

初めて偶然の答えのMVで藤吉さんの表情を見た時、私もこの感情を知っている、と思いました。
それは誰にも明かしたことのない秘密を1人で抱える孤独や苦しさだったのかもしれません。それが真っ直ぐ私の心臓を掴んで忘れられませんでした。

そこから不思議と私の中でどんどん表現が浮かんで、藤吉さんのおかげで小説を書き上げることができました。
(藤吉さんと最初にお話した時に、大好きですとお伝えしました👍)

TAKAHIRO先生が櫻坂はリアリティーを伝えるグループなんだ、と仰っているのはこういうことなのかもしれないと感じています。

櫻坂46 小田倉麗奈 公式ブログ #1

TikTokで流れてきて読み直したときの感情は、今言語化してしまうと今やその言葉たちが当時の本心から来るものであるのかが自分でもわからず、「こう思われたい」が時間と共に作用してしまって違った風に書いてしまいそうなので、控えておきます。

情緒の谷底にいるときはこういう彼女たちの背景だったり、欅・櫻の歴史だったりが刺さりやすい傾向にあるというのは分かりきっている前提で、小田倉さんの文章を時間をあけて改めて読んだとき、心が少し震えたとだけ残しておく。


その後は延長線上で少しTikTokにハマったり、ラジオを聴いたり、音楽を聴いたり。何か一つきっかけがあれば大体いつも同じようなムーブで平地まで戻っていく。

回復したことの一つの指標として、櫻坂46の個人メッセージを「可愛い…」「尊い…」の気持ち一筋に受け取れることがある。気が落ちているときは、アイドルとして頑張っている彼女たちを近い距離で見てしまうと何も成し遂げていない自分と比較してしまって自己嫌悪が加速してしまいがち。それでも最終的に石森璃花のボイスメッセージを素直に聞くことができればそれはもう完全復活である。


こうして誰にも頼らず自己完結でエンタメに谷から引き上げてもらうやり方では、また遠くない内に谷に落ちることは明白。

とはいえ、いろんなジャンルの好きなものたちに囲まれて半ば自分の力で何とか平静を取り戻しているのも事実で。

長い間安定させるための現時点での最適解は、昨年の終盤みたく向上心に溢れた忙しさに溺れることなのだが、そんなような忙しいを自由に選択できるほどの力を私は持ち合わせていない。


じゃあ、私はこれからどう生きようか。

2022年度は人間関係に気を病む自分に目を瞑りながら大学生ごっこに興じた。

2023年は一年前の傾向がやっぱり長続きせずにその分一人の時間が増えたことで、2022年には見ないふりをしていた自分をきちんと認識して、自分の情けなさにまた気を病んだりしながらも、noteをはじめとして何とか変化を起こそうと重い腰を上げて足を一歩前に出してみたりした。おかげで気づけたことも多かったし、元々好きだったアイドルはもちろん、音楽や映画など、いろいろな情報やコンテンツを吸収して一人の人間としての広がりを実感できた。


では、今年は。

20歳を迎える今年。"若い"というもろすぎる肩書きにすがることから足を洗って地に足つけて生きていく方法を模索しなければ。

この長めの春休みは、リアルの世界で誰にも明かしたことのないこの自分をどうしていくのが正解なのか。きちんと自分と向き合って試行錯誤する時間にしたい。

2024年はこんな自分に何らかの形でけりをつける一年にしたい。



余談

何とか希望的観測で締めることができました。

これだけ文量を書いていると、書いている内に段々とマシになってきて、序盤の文章を書いた自分がばかばかしくなってくる。

初めはどれほど卑屈なネガティブ思考をしてようと、最後だけでもポジティブに昇華できた方が、あとから読み返しても自己嫌悪に陥らずに当時の自分をも好きでいられる。

そういえば、昨年末に2023年の記事を一通り読み直してみて、「こう思われたい」が強すぎて醜態を晒した恥ずかしい記事は一掃しました。2024年にも引き継がれた記事たちはまだかろうじて、その時々で文章を書いた自分を肯定できる。なるべくそういう文章を今後も心がけたい。(この記事が年末まで残っている可能性はかなり低い気がするが…)


もはや自分の好きなエンタメを介した心の整理の場と化しているこのnoteというプラットフォーム。よく考えてみれば、コンテンツの客観的な批評なんて"蛹な渚"の書く記事にはほとんど見つからない。

大目に見ていただきたいものです…。

毎度毎度違った形ではあるけども、自意識過剰でしかないとは言っても前を向かせてくれるエンタメやその中のアイドル、そしてそこから派生する私の自分語り多めな記事にスキをタップしてくださる方々にはいくら感謝してもしきれません。

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