コラム

施釉の話 続

今日はこのまえの続きですが、陶器から。
陶器の施釉は、産地によっては、銅緑釉などの金属を溶媒に溶かしたものをかけることもありますが、灰釉や鉄釉を掛ける場合が多いです。
灰釉の施釉は、最も古く、一般的には、8世紀末くらいが初源で、愛知県、瀬戸地域あたりの窯で行われたようです。標識窯は、折戸窯や岩崎窯になります。有名なのは、猿投地方の黒笹14号窯やその後の黒笹90号窯、その後の折戸53号窯です。これらの窯の生産年代は、順に9世紀前半、9世紀後半、10世紀代くらいになりまして、灰釉だけでなく緑釉も焼かれました。
Googleなどで調べると、灰釉、緑釉は、大体平安時代に生産が開始されたと書かれていますが、詳細はこんな感じです。もちろん各窯式で器形、装飾技法などが、異なりますが、11世紀になりますと静岡県あたりで盛んに焼かれるようになり、器形や装飾技法も崩れていき、古代の灰釉は、山茶碗などに代わり、鎌倉時代には中国磁器も輸入され、その生産をいったん終えます。それで私などが近世陶磁器を勉強した時は、大窯時代(安土桃山期)から資料をあたりました。それはやはり茶の湯の世界、特に信長や秀吉などの時の権力者やかれらの茶の湯の指導者の存在や動向などが、近世陶磁器の特に碗などの形、姿の変遷に大きく関わってくるからです。茶の湯と器形や器種の変化の話は、また機会がありましたら、お話します。
で、釉の話に戻ります。近世になると鉄釉がいろんな種類の器に施釉されるようになりますが、この鉄釉の製品は、皆さんもよくご存知の天目釉や腰錆茶碗などにみられますが、変わり種には鉄釉に灰釉を流しかけたイラボ釉などと呼ばれているものも、登場してきます。ちなみにイラボとは、関西弁で肌が荒れた、という形容に使う言葉らしいですね。肥前の嬉野地域の銅緑釉や唐津系統の三島手と呼ばれる象篏の陶器などもわりとよく知られた施釉の技法です。
陶器は、高台全体を無釉にしているのが一般的ですが、呉器手のように高台内まで施釉されたものもあります。その他には長石釉、同じ仲間の志野釉、織部釉、北関東に多いなまこ釉など多種多様です。
次回はセッ器と土器についてお話しします。

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