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【エッセイ】辞書

世の中には当たり前のように使っていても、それを作るのに途方もない時間や努力を費やしてきたものがたくさんある。

例えば車だ。今では車は当たり前のようにみんなが乗っていて、街は車で溢れかえっているが、これを最初に作った人は、試行錯誤を繰り返し、人生の大半を車開発に費やしたといってもいいほどだと思う。ただ、ここで思うことがある。車の開発に関しては、モーターを利用したり、ボディの重さを工夫したり、耐久性を確認する実験をしたりと、その過程が漠然とだが想像できる気がする一方で、世の中には”これどうやって作ってん!”というものがある。

それが僕にとっては辞書だ。

本当にわからない。どうやって辞書が作られたのか。小学校の時に伊能忠敬が日本地図を人力で測量したと知り、その途方の無さに驚いたが、辞書に関してはそれ以上の途方の無さを感じている。単純すぎる考えだが、一筆書きで考えると、測量には同じ地点に戻ってくるという明確なゴールを作れる気がする。それに対し辞書にゴールはあるのだろうか?今の僕たちは完成形態を使っているから、”辞書には何でも載っている”と思えるが、これを一から作るなんで完全に気が遠くなってしまう。

まずどの順番で作っていったのか?

数人の大人が集まって、「今日は”あ”の言葉を出し尽くすぞー!」といったのを48回繰り返したのか?いや、それは現実的でなさすぎる。それなら、「今日は動物の名前を出し尽くすぞー!」なのか?「街を歩いて片っ端から見たものをメモって後で整理しよーう!」なのか?

いや、辞書を作るのに現実的な方法なんて無い気がする。僕の凡人的頭脳では辞書の作り方が全く分からないし、可能性を感じられるようなアイデアすらない。

仮に、上記のそれぞれの平仮名から始まる言葉を出していく作戦で進めていったとしても、”な”の言葉を考えている間に昨日出し切ったと思っていた"と”から始まる言葉を思いついてしまった。というようなことが頻繁に起きると思う。これはイライラすると思うし、街を歩いていても目に付くものの名前が頭に浮かぶのが怖くなったり、会話することすら怯えてしまうと思う。あと僕がその立場なら、難しい言葉を使うような、知識人とは何があっても会わないようにする。知らない言葉に出会いたくないから。

こんな風に考えていくと、辞書を作った人の苦労は僕達には計り知れないものだったのだと思う。いやー、何度考えてもすごすぎるし想像ができない。


ただ、恐らく辞書をどのようにして制作していったのかの答えは、検索すればすぐに出てくるのだと思う。でも、僕にとっては辞書の作り方を検索してしまうというのはどうも腑に落ちない。様々な疑問を、一瞬の検索で解決してしまっている世の中で、辞書の作り方を検索してしまう。落語にできそうなテーマだが、それはなんか違う気がするので検索しないことにします。

でもほんとはすごい気になります。


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