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「終わり」と「幸せ」の関係性

自粛が続くコロナ生活も3年目。
在宅勤務のため平日は家から出ず、休みの日も何となくお散歩したり、ジムに行ったり、カフェに行ったり。
実家で暮らす子供部屋おばさんのため、料理は何もしなくても3食出てくる。
東京在住27歳実家暮らしOLの典型的な生活パターンだろう。
この代わり映えのない生活に無理矢理終止符を打つように、私は来週からオーストラリアに行く。

…のだが、こんな飽き飽きしていた平凡な生活も「終わり」があると知るだけで、美しく見えるのだろうか。
母親の作ってくれたお味噌汁を飲むだけで、人をダメにするクッションを抱き抱えながら水曜日のダウンタウンを見ているだけで、窓から聞こえるひぐらしの物悲しい声を耳にするだけで、あんなに憎んでいた日常にこんなにも心がじーんとするものだろうか。

コロナ以降友達と会う機会が減り、自分は1人だと感じる時間も多くなった。(コロナ前も決して人付き合いが多い方ではなかったが)
それでも、私がオーストラリアに行くと知り、会ってくれる友達がいて。

いままで漠然と何か満たされていないような感じがしていた。
だからこそ、オーストラリアに行きたいと思っていた。
環境を変えれば、心が満たされるんじゃないか、幸せになれるんじゃないか。

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そんなことはなかった。今のままで十分満たされていた。
あぁ、幸せだな。
産まれて初めて心から、そう思っている。

幸せって何だろうと悩んでいる人がいたら、(安全な方法で)今の日常を無理やり終わらせてみるのがいいかもしれない。
人間とは愚かなもので「終わり」を意識しないと、幸せを感じられないようにできているのかもしれないから。
とか言いつつも、オーストラリアでまた新たな生活が「始まった」ら、幸せって何だろう地獄にまたハマるかもしれないけれど。


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