落第作③

2019年に飯場に入る少し以前のことであった。
とりあえず公園にでも寝て、なんとかその日を過ごそうとするとまあまあ大ぶりの雨が降ってきた。屋根のある公園を探そう、と自転車を走らせ、何件かの公園をまわってみたが、近頃の公園には雨が無いらしいし、ベンチに関して言っても、一つのベンチの真中に仕切りが設えられていて、寝れない構造になっている。ホームレス締め出し作戦、とも取れるし、コロナ以前からのソーシャルディスタンス推進、とも取れる。そんなこんなで3時間ほど公園サーフィンをしてみたが、ただただ濡れただけだったので、もう濡れながら寝ようと思った。
濡れながら寝ることは出来た。人間、決めてしまうと大抵のことはできてしまうのかもしれない、と思ったりした。それに雨が降っていると蚊を代表とする様々の虫が寄ってこないという利点もある。雨の中で寝ることの利点を探さなきゃいかないほど、ぼくは参っていた。
ので、Twitterさんの出番である。人気のない公園に移動してから、シャツを脱ぎ、なるべく弱そうな感じに見えるように自撮りして、その写真をあげて〈誰か3万円賭けてぼくと腕相撲しませんか〉とツイートしてみた。3万円なんて持っていないので、半殺しにあう覚悟だった。

リツイートもイイネもされなかったので不安だったが、FF外からDMが来て、それがタケシだった。Twitterのアカウント名がタケシだった。強そうな名前だと思ってビビった。
〈賭け腕相撲やりたいです!今難波にいますけどどこですか?!〉
というまさにダイレクトなメッセージだった。
アイコンを見るとサングラスをかけたGACKT風の、GACKTより少し髪が長い男が高解像度(というより高修正度)で写っていた。ギラギラしていて、こんな奴と会って話すなんて今までの日常ではなかったなあ、などと思った。そしてこういう奴に限って、見た目はスリムでもとてつもなく喧嘩が強かったり、100キロ以上のバーベルを持ち上げたりすることも知っていた。負けたらどうなるだろう、という不安もあったが、そんなことより、居酒屋で飲む金が無いなあと思った。しかし勝ちさえすればその金で払えばいいのだ。
皮脂にまみれた体を自転車に乗せて引き摺るように難波に向かった。

備長炭、炭火焼鳥をウリにしているらしい大衆的な居酒屋の店内で彼の姿は目立った。全身に纏う衣服が合計5000円くらいのぼくに対して彼のそれは数十倍のものであるだろうことがわかった。上半身は無地の白いシャツだが数万円しそうだったし、髑髏を象った指輪は原宿の5千円均一で売っているものとは輝きが違かった。
そんな描写などどうでもいい。
ともかく、まあまあ金持ちそうな男と腕相撲をしてぼくは勝ち、3万円を貰うことになった。さすがにこの額は初めてだったし、考えてみたら居酒屋で賭け事をするのは法律的に大丈夫なんだろうか、という不安などもよぎり、勝ったけれどあまり嬉しくも無かった。
それに引き換えタケシという名前の中性的な顔立ちの男は爽やかだった。
「いやぁー、強いっすね。全然勝てると思ったんすけど、なんかやってたんすか?」
そう言いながらタケシはフライドポテトを頬張った。居酒屋でフライドポテトってなんかさもしくないか?と今まで何度か思ったが、3万円貰って不安な気持ちになっているぼくのほうがなぜかさもしい。
その後お互いの噛み合わない経歴や趣味などの話をして、まったく盛り上がらないままその異種格闘技のごとき飲み会は終わることになったが、会計時、「ごちっす」とタケシがニカニカ笑いながら言って、促されるがままに代金を払った。5000円を少し超えるくらいだったが、多大な損失を負ったような気分になった。

2万4千2百円ほどを財布に残してまた放浪が続くことになったが、公園での生活の疲労をとにかくなんとかしたいと思ってホテルに泊まった。
映画などが見放題なので、『億男』や『どですかでん』を観て、更に何か観ようとして『ツインピークス』を観たのだが、続きが観たくなって連泊した。セカンドシーズンがかなり長いので結局最後まで観れなかった。
その後の顛末はこの際にはどうでもいいのだが、1年越しに連絡をとったらすぐに駆けつけてくれたタケシという名前の男は、居酒屋代をぼくから徴収し、更にあの時の3万円をたった今ぼくから無断で取り返した。そもそも数千円しか手に入らないと思っていたし、流れがあまりにスムーズだったのでそれを制するという判断はできなかった。
こういう奴っているようなあ。思って、結局こいつは全額でいくらゲイの男から取ったのだろう、などと思ったが、訊くのはやめた。訊いたらもっとみじめな気持ちになりそうだからだった。
悪銭身につかず、という言葉はぼくはあまり好きじゃないし信用しない。金というのは回り回って人の手に届くので、そのどこかの地点(時点)で悪銭になっているわけだし、〈そうじゃなくてあなたがいくらかのお金を手にするその時、それが善い行いの元に得られたものかどうかなんですよ〉という至極真っ当なことを言われたとしても納得が出来ない。納得が出来る経験がまずしいだけなのかもしれないが。この世の中には必要の無いものだとか、無いほうがいいようなものが腐るほどあって、そういったものを作ったり人に渡したりしている人たちが、そんなに不幸なようにも見えない。不幸、ということに関して深く掘り下げたらやっぱり不幸なのかもしれないが、深く掘り下げる余裕が無い。身をもって不幸を体感している自分からすれば、たとえ嘘でも、ハリボテのものであったとしても幸福というものに憧れるものだ。そして幸福への憧れというのは、すなわち幸福への回帰願望なのではないかと考えたりした。
おれはかつて幸福だったのだ。
タケシの香水の匂いは気持ち悪かったが、ああいうのを好む人は多いのだろう。直感だか、彼はヒモのような気がした。おそらく金持ちの女に飼われているのだろうと思った。想像したら更に気持ち悪くなったし、一瞬想像した彼のイラマチオや、隆起したペニスを彼の喉奥に突っ込むゲイの初老男性の顔を想像したりして吐きそうになった。これはまずい、と思った。去年ツインピークスのためにホテルに連泊して二万数千円を使って飯場に入るという愚かな成り行きに甘んじてしまったが、このままでは似たようなことになると思った。こういう時どうしたらいいか。
特に良い案が浮かばなかったので、天神橋にある不味くて安いうどん屋でうどんを食べてから、その近くの銭湯に行ってみた。
特に取り上げるようなところも無い銭湯で、出てから着替えるに至るまでのあいだにあった発見といえば、異常にでかい金玉のじいさんがいる、ということくらいだった。
発見といえば異常にでかい金玉のじいさんがいるくらいだったな、という感想を抱いた頃、番台のおばあちゃんが帰って、代わりに孫らしき肥満女性が番台に立った。ああいう人ってどういう気持ちなんだろう、と思ったが、深く考えるのはやめた。男のこととか女のこととか金のこととか社会のこととかを考えていると気持ち悪くなってくる。
その銭湯のことはさほど気に入らなかったが、風呂に浸かることそのものはとても気持ちよく、更にその日は夜風が涼しく心を癒した。
なんも考えずに夜風に吹かれていたいな、と思って、駅舎の外周を囲うベンチに腰掛けて、眠った。とても気持ち良くて、そのままスムースに深い睡眠に入った。
しばらくして夢の中で歯車が動く音が鳴ったような気がしたが、夢ではなくすぐ自分の横に自転車が来ていたらしくて、そんなに近くまで自転車来るの気持ちわりーよ、大阪のそういう距離感の無さが嫌いだよ、と思って目を開けて横を見てみたら、そのママチャリの籠にはぼくのリュックが入っていた。
あっ、あれ?あそっか!盗まれてる!今まさに!と思って飛び起きた。飛び起きた頃には既に自転車は走り出している。横に置いていたスマホをポケットに入れ、自転車めがけて全力疾走した。スマホがポケットに上手く入ってなかったみたいですぐに地面に落ちた。想像したよりそのママチャリは速かった。追いかけ始めた時点で10メートルくらいの差があったが、全力で走りながら、加速されたらもう厳しい、と思った。ママチャリでも全力であれば時速40キロくらいは出るだろう。走りでのぼくの最高速度は35キロほどだし、更に靴も脱げたし、そしてスマホが無くなるのも怖いと思って、走るのをやめた。
肩を上下にさせながらぜえぜえ息をしつつ逃亡者を眺めて、すぐにその姿は見えなくなったが、色んなものが入ったリュックを盗まれて、その犯人を捕まえることがほぼ不可能となったときのぼくの心は、以外にも澄んでいた。
白さを取り戻した、と思った。
仮睡者狙いというやり方や、自転車VS生身、というハンデはともかく、全力で走って、追いかけて、負けた、というのが、なかなかに気持ちよかった。
あざといこと、せこいこと、汚らしいことを繰り返してきたぼくである。眠っているものを狙うというのはさほど悪くもずるくもないように思えた。
非常に心が洗われて、やっと一つの指針ができた。

基本的に無駄遣いします。