全体像はえがけない脳 えがきだしたら幻と思え

脳はひとつしかないのに、悲しいことがあると「人生って全体的に悲しいものだ」とペシミスティックになり、たのしいことをしている時には「人生には楽しいこともたくさんあるな」なんて、殊勝なオプティミスト。

脳は、ひとつしかないのに。

たのしい経験があったなら、それを基調においといてくれたらいいのに。そしたら、仕事中だって、いやな作業だって、たのしい気分でこなせそうなのに。

脳は、総括がとくいだな。

いや、得意なふりをしているだけだ。本当は、悲しいことしかない人生も、たのしいことばっかりの人生も、どこにもない。

「脳にだまされちゃいけません」という文章をみて、「おお、そうなのか」とその瞬間はふかく納得したものだ。

けれど、脳が自分でなかったとしたら、いったい体内のどこに自分がいるのだろう? こころ?

「脳がこころを作りだす」というのも、最近はよくあるオピニオンになってきた。解剖しても、こころは取りだせない。なにかが、こころを装っている。神経系? 脳が発達するまえの生命体――プラナリアとか――は、からだの真ん中に神経がとおっている。人間でいえば脊髄のぶぶん。

そこ全体で、こころを作りだしているのではないか?

まあ、どっちでもいいか。「脳にだまされちゃいけません」の真髄はつまり、「脳のいいなりになっていると、不幸になります」ということなんだから。

自分という存在が、脳であれ、こころであれ。とにかく私は、たのしく人生を謳歌したい、と思う一個体なのだ。

たのしく生きる。つねに楽しくなくてもいい。たのしいことが時々あって、「たのしいなぁ」と思い、そのきもちを誰かと共有したり、SNSにアップしたりして、また平穏な日々にもどって、また楽しいことがあって……

こういう人生はちょっと理想的すぎるかい?

けど、逆はけっこうへいきで「こういう人いるいる」になる。すなわち、毎日が不安でいっぱいの人や、つねに疲れきっている人。

そんな人たちは、本当に不安だったり、疲れきっていたりするのか。あるいは、それも脳にだまされているのか。

釈迦もキリストもムハンマドも、そういうのを解決しようと立ち上がったのだったか。新興宗教、っていうとどうもマユツバ感じざるを得ないけど、何千年とつづく宗教の関係者が「不安とたたかう」という命題と対峙してきたのなら、

そう一足飛びに「不安解消!」ってことには、できなそう。

しかし、思考や考察なくして、不安はおこらないと、やはり思う。やはり、脳にだまされているんだと思う。……だまされているんだったら、いいなと思う。

「脳にだまされてるんですよ。『不安がたくさんあるよ』なんていう脳の言葉は、信じちゃいけませんよ」って、触れてまわるのに。

脳は総括がにがてだな。

つまり、「人生とは○○なものだ」と総括しはじめたら、脳の言ってきたことを疑え。脳は総括なんかできる奴じゃない。なぜなら、仕事中に、たのしかった頃のテンションを心のなかに置いといてくれないのだから。

置いといてくれよ、ってこんど頼んでみるか。


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