三日月

出かけよう 根源をさがさない旅へ

好きでもない仕事に出かける前、好きでもない人に会いにいく前、その朝のなんと暴力的なことか。

休日にやるのとは、大違いになる、すべてが。起きあがることに始まり、鳥の声をきくこと、空を見上げて天気をたしかめること、ニュースをつけること、朝ごはんを食べること。すべてが、不快。

それを、「いやなことを頭のなかでぐるぐる考えているから、そうなんだ。頭をからっぽにして、解決しよう」と言われましても。できたらやっている。

考えてしまう。その思考は、これから会いにいく仕事や人、それについて、過去の失敗や、未来への不安だったりする。

○○だから、あの仕事は○○

○○だから、あの人は○○

もう、やめよう。原因を考えるの、もう、やめよう。

よく、犯罪報道などにおいて、「あの人は育ちが○○だから、やってしまった」「親がこんな人だから、性格がどうのこうの」と、まことしやかな説明をしていることがある。

原因は、たしかに、どこかにあるかもしれない。

しかし、原因と、こんかいの結果とをつなぐ糸は、だれにも見えない。人生は、長くて、複雑で、しかも、本人の思考については、書きのこさないかぎり、浮かんでは消え、それにかんする一切の証拠はもうない。

そんな人生をもつ人間どうしがせめぎあう社会に、因果関係など、ないに等しいのだ。

根源など、存在しないのだから、さがさなくていい。

「朝がつらいのは、これから○○が待っているから、つらいのだ」という理論はまちがっている。「○○が待っているから、この朝は、つらいにちがいない」といっている。

朝は、朝でしかない。休日の朝も、平日の朝も、鳥の声がきこえ、太陽がのぼると薄明るくなってくるもの。それから、大気のにおいが特有であるもの。

朝のつらさの根源を、脳が探しはじめたら、その脳を、疑え。きみは、それほどまでにからっぽなのか? だから、満たせるものをさがしているのか、と。

すきなこと、やりたいこと、目標としていること、家族や恋人のこと。満たすべき情報が、あるんじゃない?


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