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カメウサ 得も損もなく ゴールが点々と見えている

幼ければ幼いほど、経験したものごとの数もおなじくらいで、よこならび。だからこそ、意味がある「早いほど、いい」

歩く速度、手早い作業、小さいうちからレッスン。

本当は、速ければいいことなど、たいしてない。

友人に、ゆっくり食べる人がいた。わたしが驚いたことに、その人は、咀嚼しているあいだ、箸を置くのだ。

わたしは、自分が案外、作業などが速かったこともあって、その人のことをなかば蔑んだきもちで見ていた。いちいち箸を置いていたら、食べるのに時間がかかってしかたない、と。

その人は今、人生の道のりで、わたしよりずっと前を歩いている。わたしにはもう、背中も見えないくらいだ。

その瞬間の速さで、解決できることは、その瞬間のみのこと。

本当の速さは、その瞬間だけでは成立しないような、速さ。

どんな人も、人生の節目のような、一定のゴールを夢見ていきていくと思う。

受験に合格する、就職する、結婚する、とかなんとか。人生のこのステージに合ったゴールというものが、そのステージ上で、存在する。

それが、あまりに近すぎると、「今日のご飯を何分早く食べる」とか、おかしなことになる。何分儲けたって、それが目標では、瞬間の達成感があるのみ。

では、「儲けた何分で、勉強をする」ではどうか。それは立派な志だ。この何分を利用し、さらに積みかさねることで、受かる学校や職種があるかもしれない。けれど、学校に入ったことをゴールにすると、学校でなにをやるか、ということはまったく想定されない。どんなに夢見た学校に入学しても、そこで勉強に挫折して退学する、などのことになりかねない。

では、「入学した学校で○○する」では?

学校でしたいことばかりが念頭にあると、たとえば高校球児のように、満足のいく学校生活を送れるかもしれない。ただし、失敗したとき、その人のなかには何もなくなる。燃え尽き症候群という状態。

それとは反対に、学校で我慢して勉強し「○○会社に就職する」とすれば、意義あるのか? 失敗すれば燃え尽きるだけだとしても、就職は、学校えらびとはちがって、収入に直結する選択。「金持ちになる」と宣言するに等しく、それを達成できたら、幸福だろうなあ。

どうだろうなあ……。金持ち、という尺度はあまりに漠然としていて、たとえ○○円貯金する、という目標を立てたとしても、そのあと「これ、何につかう?」となるのが関の山。老後のたくわえにするのだとしたら、その時点では使えず、苦労のみを支払って、満足感は得られない。

「貯金して、家を建てる」というのは? 設計し、施工に立ちあい、完成し、引越す。その物いりな初夜の、なんと満足なことだろう。自分の、会社での苦労が、この家に結実したのだ、となる。

けれど、暮らすうちに夫婦仲に齟齬をきたして、離婚、なんてことになったら。家を追いだされるとしても、家に残るとしても、それは二人が出会ったころの満足感を超えるものには絶対にならない。家という素晴らしい物質が増えたにもかかわらずだ。

家なんかなくても、信頼しあえる人がいれば、安アパートでも幸せなのだ、と考えはじめる。

永遠にゴールでいてくれるゴールはないし、本質的なゴールというのも、また存在しない。

ゴールにはもちろん、そこへ辿りつく意味がある。けれどその意味は、永遠には続かないし、むしろ到着したその瞬間に消えるもののほうが多い。

かといって、では「ゴールまでの道のりが、人生の糧なのだ」と原理主義的なことは、わたしは言えない。作業をしてもしても終わらない人生。達成のない人生で、精神の均衡を崩さない人が、どれくらいいるか。

ひとつのゴールに向かって、わき目もふらず、猪突猛進にすすんでいける人なら、それでいい。

もし、そこまで情熱をかたむけるものが見つからない場合は、「ただ、ここにいる、人生だなあ」と、人生を立ちどまり、立ちどまった自分を認めることも大事。

ゴールの種類や数が、人生の価値ではない。作業をしているその瞬間の自分、ゴールに辿りついたその瞬間の自分、それを、好ましいものだと思えるかが、価値。速度については、ウサギでもカメでも、どちらでもOK。



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