元気になる人2

道楽の たのしい みちゆき

有名な絵画などは、すばらしいものもあれば、意味を読みとれずクエスチョンマークで脳内埋めつくされるものもある。その絵には、その絵を好きになる人がそれぞれにいて、趣味は千差万別。

ただ、それらの絵が○億円で落札された、などちょっと世俗からかけ離れた価値をつけられるのを見ると、「しょせん、金持ちの道楽だな」と、いくぶん冷めた気持ちになる。

それがエスカレートすると、「こんな適当な絵、うちの子供も先週描いてた」なんて話になったりする。

キャンバスと絵具と額。それだけで○千万、○億。

霞かあぶくかバブルのように不確かな、価値。ただし、どんなに不確かなものでも「火のない所に煙は立たぬ」。理由のない事象は存在するかもしれないが、原因のない事象ってのは、ひとつだって、この世界には存在しない。

その○億円は、一見しただけじゃみえない、価値のはず。

マグロの握り、1カン、200円。

これはだれが見ても、同じ価値。だれが食べても、同じ価値。見るだけで人々は、これがどれくらいの「食糧的価値」で「味覚的価値」であるか、ということをだいたい正しく想定できる。そして、200円という金銭的価値を妥当だと思ったら、購入する。

ところが、絵では、こうはいかない。

技巧をこらして精密さを追求して、しかも時間をかけて描いた絵でも、買う人がいなくては、それは0円。一方で、なにを描いたものなのかすら不明な、ほんとうに幼児が描いたような絵にみえるのに、それがかつて活躍した著名な画家の作品だとわかったとたんに○千万円。

その価値というのは、もちろん紙や絵の具の値段ではない。

かといって、それを描いた人の時給的な価値でもない。描いたあとで、値段が大きく変動することもある。

では、それは何の価値なのか?

それがわからないのが、この価値のおもしろい所。事実としてわかっているのは、そういった絵を欲しがる人がいて、その最たる人は、その○千万円の価値をその絵に見出している、という事のみ。

AIの研究用語(?)に「黒魔術」というのがある。AIとはいえ、もちろん全能の神などではなく、人間がプログラミングをすることで能力を発揮できる。そのためのプログラムはつねに改められているが、「Aを直したから、Bが改善された」と割り切れるものではないらしい。

「どこを改めたせいかは不明だが、Cが改善された」という状態があるという。この、結果とのつながりが不明確な改変のことを「黒魔術」という。

この世でいちばん価値のあるものって、なんだろう? それにはきっと、地上で上位の値段がつけられることだろう。値段のつけられるものの中では。貨幣経済がはじまる以前、人にとって大事だったのは、うーん、ふたつで迷う所。

ひとつは、生命。ふたつめは、あそび。

あそびという言葉を咀嚼するなら、生命活動に直結しない行動。犬も遊ぶし、カラスも遊ぶ。そういう意味じゃ、あそびをスタートしたのは、生命体のなかで人間が最初とは到底いえない。けれど、あそびがなければ、文明すらないだろうから、これは大事なものだとわたしは思う。

ま、どっちでもいいけど、もし金銭的価値がつけられるとしたら、最上位にくるのはこれらかと。

著名な絵画は、一見すると、このふたつのうちの「あそび」に属しているように思う。絵画などなくても、人は生きていける。食糧がなければ生きていけないのと、ちょうど対極に語られるように。

けれど、実は……

あそびに金銭的価値をつけるのは、ふつうにされていることだが、生命となると、ペットはともかく、人の命には一般的に、金銭的価値をつけるべきではない、とされる。人身売買などの問題があるとはいえ、ふつうに生活していれば、価値をつけたいとすら思わない。売買のしようがないからだ。

だが、食糧には簡単に、金銭的価値を付与することができる。食糧は生命に直結する。だから私たちは、自分の命にも金銭的価値をつけるべきではない、と感覚的には思いながら、一方で、生命を維持するための何層にも積み重なった金銭的価値の総体として、自分の命を保っている。

絵を見ると、その絵がもつ印象が、脳内に生じる。この絵はいいなあ、あの絵は爽快だなあ。そんなイメージが浮かぶ。明るいイメージを生じれば、気持ちが明るくなる。くらいイメージなら、その逆。

ただ、それらの印象が、生命維持に直結するかといえば、食糧ほどには影響力をもたないように思う。

しかし、その○億という価値をつけられた絵がもし、黒魔術だったとしたら?

人間の脳をあなどっちゃいけない。脳はAIだ。むしろ、AIを発明したのは、自分たちの脳の構造に似せたから、自然とそうなった、というのが本当の順番だろう。

侮っちゃいけない、という言葉は『「あまりにものすごい高機能で、理解不能で、スーパーな存在だ」という思い込みをすべきでなく、もっと一般的なものなのだ』という意味で、私はつかっている。

ヒトの脳が高機能なのは確かだが、これがある一定のルールにしたがって機能している、たんなるシステム、「機構」の一種であることはちがいない。なぜなら、そのおおもとが、DNAという全生命共通のルールで支配されているためだ。

AIにとっての研究者のように、子供を見守る親みたいな存在は、人類には存在しない。いるかいないかわからないが、AIと研究者との関係を見たところ、研究者たちはAIに自分たちの存在を隠したりはしないので、やはり人類にとってそのような存在はいないだろうと予想される。

だから、プログラムを修正してくるような相手もいない。だが、黒魔術はその「親」でさえ制御できていない修正のことをさす。

プログラムの親がいない人類(生命体)は、それならば、自分のプログラムを自発的に修正してここまで進化してきたのだろう。それは、もちろん意識的にではなく、無意識での修正だ。

だが、親がいないからといって、その修正が自発的なものだけだとは限らない。

ときには、あるいは頻繁に、外的要因によって修正がなされてきたに違いない。そのひとつが、○億円の価値をもつ絵画によって行われるのではないか、と。

つまり価値のある絵画は、生命力や生命の延長を、見るものに付与する。

という自分AIの予測である。


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