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これくらいしか 自由になりそうなもの ないのに

感じる。

こころで、なにかを感じる。目のまえにあるものを見たり聞いたりして、その状況のことを「こういうことだ」と理解し、なんらかの感情がおこる。

感情がおこったことを、自然なことと思う。感情のせいで、それを爆発させたり吐露したりして、周囲に良いばかりではない影響を与えてしまい、それで自分が不利になったとしても、自然なことと思う。

感情が、自分を有利にした、と思う経験はあまりない。けれど、きっと、思わないだけで、実際は、ある。あなたと同じように喜んでくれる人間がいたから、置かれた状況を、喜ばしいものだと、信じられる。

感情は、わたしたちを、どこかへ連れていこうとする。

いやだ、と思う。その感情は、道のその先へすすもうとする身体を、阻止しようとする。そちらへは行かない、と駄々をこねる。ひとりの人間が、迷う。進むべきか、避けるべきか。

いやだ、という感情を、手放しでただしいものと判定することはできない。これにたいし、賛成するのも、反対するのも、頭だ。すすめば、試練をのりこえて新たな境地へたてるかもしれない。避ければ、命にかかわるような事故に遭わなくてすむかもしれない。

どちらもひとりの脳から発せられた結論なので、その正答率も、おなじくらい。

頭は、重大なミスを犯していることがある。機能がよすぎて、なんでも予測しようとする。現実には、見ていないものも、知っていると思いこんでいる。

「案ずるより産むが易し」は、頭が予測してたよりも、ことがずっと簡単だった、という経験則に基づく。ところが、「言うは易く行うは難し」もまた、経験則に基づく教訓だ。

つまり、良いほうにもわるいほうにも、予測してたものとずれた現実が、目のまえに現れる、ということだ。だから、やった結果なんか、考えても意味がない。

感情を、わたしたちは、大切にしようとする。

理論的に考えれば、「こうすれば、こうなる」というのは、先達の例で、だいたい予測がつく。だから、ハプニングはあっても、人生はあるていど安定的に過ごせるはずだった。

その計画を阻むのが、感情だ。感情は、臆病だったり、破天荒だったり、まるでちょうどいいというラインにいない。必要もない場面ででてきて、計画をじゃましようとする。

じゃまをしたり、背中を押してきたり。とにかく、感情には、強制力があるのだ。感情に立ちはだかられては、人間の理知な人生計画も、会社の経営計画も、キャラづくりもなにも、ぜんぶがおじゃんだ。

わたしたちは、なぜ、感情に動かされ、困らされるのだろう。感情のことを大切だと思っているからこそ、優先しようとするのだろう。なぜ、こんなにも大事にしなくてはいけないのか。どんなにつらくても、その感情を大切にしなければ、つらさは感じないのに。

そもそも、そのつらさは他人にみえないのだから、持っていても仕方ないのだ。見えているなら、多少の同情も買え、助力もあるだろう。見えていないのだ。なにが原因で、足を踏みだすのをためらっているのか、他人は不思議がるどころか、怒りだす。

本当に、迷惑な、感情。

それを大切にしている自分の、なんと滑稽なことだろう。なにも感じなくなればいいのに。なんでも挑戦できるし、怖いものがなくなる。心配で夜ねむれなくなることだってない。

時がたてば、おばあさんが若い娘さんを眺めるように、肝がすわり、感情が薄らいでいくのだろう、と思う。それは、感情に引きずりまわされることに慣れたのか、はたまた、生命活動を維持することへのモチベーションが、生命としての残り時間を認識することで下がったのか。

感情は、生命維持のためのツールだったのか。



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