誘惑にのるか 踊るのをやめるのか

元来、注意散漫なのだ。

同時にいくつかの事を処理している、脳。

散歩にでてもそうなんだ。ただの散歩。朝日をあびながら、ぷらぷらするだけでいいやつ。なのに、あっちの花をみては色をたしかめ、こっちの虫をみてはカテゴライズしてみている。

それをやめたくて、「今から、わたしの時間を空にあげよう」と心にきめて、歩き出す。住宅街でも道の起伏はけっこうあって、一歩くだるごとに空も、その下にみえている家との関係を階段状にかえていく。

むこうがわの景色が、だんだんと見えてきたり、あるいは隠れていったりするのが、坂道の醍醐味なんだ、とかあたまはいつしか言葉でいっぱいに膨れて、

ぷらぷらする意思はどこへ行ってしまうのか、瞬時に。

ちかくの花や虫に注意をひかれるのが、なぜ私はいやなのか。それはぷらぷらしたいからだ。花を見ることで、作業を仕事化してしまうことを、さけたいと願っている。

仕事化とは、なにかの成果をだすこと、だと思う。ぷらぷら散歩しても、それがなにかを生産することは、あまりない。ただ本人がすっきりするだけだ。ゆっくり歩けば、ダイエット効果すら、あるかないか位だ。

成果がない、そこがいい。

成果がないことをしたい。成果がないことをしたいという、うちなる痛切なさけび。

なのに脳のやつ、なんでもかんでも成果に結びつけようとしてきやがる。まるで、それがこの世に生をうけた者の使命であり義務だというかのように。

歩いている最中に、バックグラウンド処理をしていることといえば、花の名前を思い出すことや、虫の音をきき分けることもそう。昔のことを思いだして、景色なんか目に映ってはいるのにまるで見えていないこともある。注意深い性格だから、うしろから近づく車の音につねに耳はそばだっている。

車を運転すれば、音楽をながす。本を読めば、足をストレッチする。

1つのことをしろよ。

一方で友人は、「同時に処理していたいタイプ」と自己評価をしていた。音楽サイトからダウンロードしながら、メイク落としをする。食事をしながら記事をよむ。そして、関連があるかどうかは分からないが高所得者だ。

わたしは1つのことに集中したい。それができずに苦しい。1つのことに集中したい理由をかんがえると、やはり、投薬治療が最盛期だったころの「1つのことしか処理できない」脳が、なつかしいのだと思う。

病にたおれる以前は、当然のように複数処理人間だった。音楽のならないドライブなんて考えられなかった。一方で……ときどきオーディオを止めて、ほっとしていた記憶も、なきにしもあらず。

本当は、当時だって1つのことに集中したいと、脳は思っていた? 矛盾をかかえた面倒なやつだ。面倒なやつはいとおしいと、相場がきまっている。

ほんとうは、1つのことに集中できない自分がいやで、1つへの集中に固執しているのか? わたしよ。

それだと問題は解決しない。1つへの集中が達成できても、精神構造がおなじままなら結論はこうだ。「複数処理人間にもどりたい」。考えれば考えるほど、効率というのはよくなるもので、効率があがれば時間があまり、あまった時間ですきなことができる。

その時間で、ぷらぷらと散歩して、脳はあいかわらず成果を追いもとめ、わたしは、ただぷらぷら歩いている人を演じることすら叶わず。

自分をすきになることは、そんなに難しいことではなかったはずだ。

とにかく、朝起きる。

朝起きて、散歩に出る。虫の音をきく。たちどまって空をみる。遠くの森は、朝が早ければ早いほど、青だ。

それを知って、なんになる。言葉にしたら、また頭がいっぱいだ。この世に生をうけた頃、人というのはだれしもが言葉を持たず、けれど意識をもち、世界をとらえ、知っていく。

言葉があって、はじめて存在できるものがある。だれかが言葉にしたから、それが世界をつくりはじめる。あたまに入れておける言葉の数には、限界がある。言葉の背景に、おおきな存在があるから、見かけ上のただの字のすがたより、言葉はずっと重さがある。

だから、本にする。

自分の外側におく。身軽になって、それからまた散歩に出る。身軽な自分というものは、それ自体は好悪の評価のそとにある。でも、好きになれないこともない。

人生を登山にたとえたとき、黙々と登るより、踊りながら登れと言った人がいたけど、だれも見ていないところで踊ったら、たしかに、究極的に、生産されるものがなにもない。人は、それがすきなのだ。生産性のないことが。

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