初心 思いだすのが困難で 思いだしたらかんたん
「初めて」
それは、ふしぎな言葉。
それは、未熟なことをさす。瑞々しいことをもさす。
車を運転できるようになりたくて、教習でならう。目的は、車にのって遠くへいくこと、仕事をすること。運転そのものをするために、ならうのではない。
しかし、運転しているあいだに、運転そのものが目的となることがある。アクセルを踏みこむ感覚、ステアリングの握りぐあいや、操作性、ギアチェンジのタイミング。
その動作、ひとつひとつ、一瞬一瞬に、価値をみいだす。その一瞬一瞬が、その人にとっての達成になり、幸福になる。
「初めて」は、その人にとっての、思いがけない幸福発見の場。
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上達するにつれ、よりレベルの高い課題に挑む。その難しさに、立ちどまりたくもなる。
楽器の演奏もそう。高度な楽譜は、演奏してみたいのに、思うように音が出ずに、イライラしだす。そのうち、演奏という楽しみのための行為が、苦痛になっている。
なぜ、それをするのか、わからなくなる。
「初心に帰れ」という言葉は、教訓じみている。原理主義。何かの技能をたかめようとするのなら、初心に帰れ。
しかし、初心に帰るのは、実際むずかしい。なにごともそう、教訓のかべの向こうがわが見えない。だから、努力をはらってその言葉に従うべきか、躊躇する。
躊躇するから、初心に帰れる人が少ない。
帰れる人が少ないから、言いならわされる。
つまり、初心に帰るという行為そのものが、類まれな一種の才能なのだ。
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初心のうちは、情報量がすくない。
まっしろのキャンバスに描くほうが、人の絵のつづきを描くより、ずっと簡単。
まっしろのキャンバスだって、怖い? 絵がへただから? そこにあるのは、おそらく途中のキャンバス。かつて描いた自分の絵の、つづきを(しかも、かつてより上手に)そこに再現しようとしている。
情報量が少ないと、より自由に行動できる。
情報量がおおく、技能のあがった人は、より複雑な絵をえがく。けれど、「こうしたい」という自分の理想も、高くなる。前回はこれだけやったのだから、次回はより高度にやろう、など、
どこから持ってきたのかわからない、しかし、どこか常識的な、宇宙のルールに従おうとする。なにものかに従う、ということは、自由をなくす、ということなのだ。
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なにかをおこなうのに、ルールなど、存在しない。
本当だ。存在しないんだ。
ルールは、一定の人数の人があつまったとき、そのすべての人の気持ちを、ある程度平等にくみとるためのシステム。
自分ひとりしかいないなら、ルールは存在しない。
そのルールを課しているのは、だれ? 幼い頃の、大人の言葉? ともだち? 恋人? 会社の同僚?
それとも、自分の内なる声?
ルールなしで、一度、やってみない? 自分ひとりしかいないなら、だれも見ていない、だれも咎めない。
初心になるって、そういうこと。だれにも、どんなルールにも、縛られずに、なにかをすること。
すると、物事は、かんたんにできるようになる。
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