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【旅日記】長崎旅行③大浦天主堂にてキリスト教の歴史を学ぶ

今回の旅日記は、日本最古の教会、大浦天主堂を訪れます。中に展示されていたものの要約がメインのため、少し歴史のお勉強が強めになっています。

グラバー園を2時間かけて堪能した後は、大浦天主堂へ行きました。

歴史の中でも有名なカトリック修道会イエズス会の創設者の1人、フランシスコザビエル。


1549年にインドのゴアから日本の鹿児島に渡りキリスト教を初めて日本に伝えました。その後、ポルトガル船が平戸に移り、博多、山口でも受け入れられました。

このようにキリスト教は九州を中心に信者が増加します。


京都に来ていた織田信長をルイス・フロイス神父が尋ね、都でも布教が許されたり、ヴァリニャーノ神父は本能寺でもてなされるなど、信長はキリシタンの庇護者となりました。その影響で京都や安土には神学校や南蛮寺が建てられました。キリスト教が最も栄えたのは、長崎。平戸から大村藩主の港に船を移した事で布教も広がり、領主の大村純忠は洗礼を受けて、日本初のキリシタン大名になりました。洗礼名はバルトロメオ!私は尾田栄一郎さんの描くワンピースが好きなのですが、歴史を学ぶと色んなところから登場人物や場所の名前が出てきて面白いですね~ゴアも出てくるよね、地名として!


その後、秀吉が天下を統一。秀吉も初めのうちはキリスト教に好意的で、1587年に博多で伴天連(宣教師のこと)追放令を出し、国外退去を命じ、イエズス会から長崎を取り戻しましたが、南蛮貿易に執着があったため、取り締まりきれなかったそうです。
1596年、スペインの船、サンフェリペ号が台風で土佐、今の徳島県に漂着。
全員がスペインは世界では強い国で宣教師を派遣して、現地の人を改宗させ、占領すると話したことから、秀吉は宣教師の処刑を命じます。
フランシスコ会やイエズス会の修道士、信者ら24人が捕まり、京都や境で引き回された後、長崎まで真冬の道を歩かされました。なんとも過酷!そして、非道!人権もない。
途中2人が自発的に加わり、1597年に長崎で十字架にかけられました。ここまで長いお話となりましたが、この26人の為に1864年に創建されたのが大浦天主堂なのです。



1598年に秀吉がこの世を去った後、実権を握ったのは徳川家康、1614年に禁教令を出します。その後、徳川家光は、鎖国政策を始め、海外在住5年以上の日本人の帰国をも禁じました。宣教師は国外追放、西洋との交流は長崎の出島が造られ、オランダと中国のみと貿易を行なう事にさせました。1637年にキリシタンの天草四郎を中心に島原天草一揆が起こり、これを受けて幕府は取り締まりを強化。踏み絵が始まりました。

全てを取り締まるのは幕府も難しく、この後もこっそりと、秘密裏にね、潜伏キリシタンを続けている人々はいたわけですけども。特に島が多いので外海にはたくさんいたようです。この時代の長崎は大村藩から子どもの間引きを矯正されていました。まるで一人っ子政策!
天主堂の中に飾られていたマリア観音や納戸に隠した絵などの前で拝んでいたみたいです。
そんな時、五島藩が荒地開墾のために入植。その後も3000人程が五島に渡りました。差別はあったもののキリシタンの取り締まりはあまり無かったそうです。その後、黒島や平戸に広がって行きました。


幕末期、1858年、蒸気船で黒船ペリー来航です!アメリカ、イギリス、フランス、オランダ、ロシアと修好通商条約が結ばれ、開国に踏み切ります。開港都市は、函館、横浜、長崎。長崎の大浦海岸には外国人居留地が造られ、造船や炭鉱をもたらしたグラバー園のトーマスグラバーさん、オルトさん、リンガーさんも来日します。貿易商社を始めたのは実は坂本龍馬。グラバーさんと協力して薩摩藩名義で軍艦を長州藩に調達。薩長同盟のきっかけをつくります。

日本の開国と共に、フランスからジラール神父が通訳として来日、横浜に天主堂を建設。その後、1863年にパリ外国宣教会のフューレ神父を長崎に派遣。本当は殉教地に建てたかったけれど、外国人居留地外に建てる事は許されず、現在の南山手が選ばれ、日仏修好通商条約に基づき、フランス人の礼拝堂として、建設がされました。その時、同じ宣教会のプティジャン神父が長崎に着任し、建設に尽力しました。
フューレ神父は禁教令の残る日本で教会は外国人専用であり、宣教できないことを悲観して途中でフランスに帰国してしまいます。

ジラール神父の指示とプティジャン神父の指導の下、4億円程をかけて1864年末に建設開始。ゴシック風の構造を持ちながら、中央の壁面は、バロック風、外壁は黒地白い格子のナマコ壁、西洋風交差式リブ、ヴォールト天井、蝙蝠天井とも呼ばれますが使われた和洋折衷の大浦天主堂が翌年に完成します。正面には金の十字架が置かれ、フランス寺と呼ばれました。

天主堂が献堂されてから1ヶ月、15名ほどの信徒が天主堂に現れます。彼らは、浦上でそっとキリスト教を信仰し続けた隠れキリシタンの人々だったのです。その後もキリスト教が禁じられている中でも、遠くは五島からも信者が訪れたということです。


信徒が発見されてから、浦上の信者は4つの礼拝堂を造り、神父が巡回して、ミサや洗礼を行いました。過去3回のキリシタン摘発がありましたが4回目が一番大きいもので1867年に68人もの人がキリスト教を信仰しているという理由で捕まりました。

明治に入ると政府は天皇制国家を築くために神道を重んじ、キリスト教信徒は以前にも増して捕らえられ、荻や津和野、福山に流配され、拷問や苦役を受けました。これは1873年まで続き、600人以上が亡くなっています。
1879年には手狭になった大浦天主堂は2倍に増築、現在の姿になりました。

一方、欧米を訪れた岩倉具視使節団はら信教の自由を求められ、禁教令撤廃となり、1889年の明治憲法の中でも宗教の信仰の自由が保障されました。
昔からこのように自由を手に入れてきたんですね。何かが自由にするために、色んな人の陰の努力があり、今がある。

最近で言うと、同性婚やジェンダー問題、男女格差、スペシャルニーズ教育など、あらゆるものがまだ不自由でそれらを開放するために人生をかけている人たちが今日もどこかにいることを日々SNSやニュースで見かけます。

この解放で、信者は全国で4万人超え、九州ではその6割を占めました。大浦天主堂は司教が常にいるcathedrale(カテドラル)となりました。
パリの神父が司教を担ってきましたが、1927年に初の日本人、早坂久之助司教が誕生しました。

1933年に建物は国宝に指定されました。

1945年、長崎に原爆が投下されます。浦上の上空で爆発。天主堂は倒壊、信者1万2000人のうち、8000人が亡くなりました。



二つの鐘は無傷だったようで、1946年より再建開始、新聖堂は鉄筋コンクリート造りで、1959年に完成しました。




現在は以前の戦前の形に近いものに復元されています。


歴史の息吹が香る街、長崎。次回が最後となります眼鏡橋編です。









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NYでフリーランスのライターと日本語の先生をしています。どこまでも自由になるため、どこにいても稼げるようなシステムを構築しようと奮闘中。