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古代の『神曲』〜プラトン『国家』より「エルのミュートス」〜

 プラトンの対話篇にしばしば現れるミュートス(物語)は、かつてはプラトン研究においてあまり重要視されなかったものであるが、近年の研究により、プラトンの哲学において重要な役割を果たしているとみなされるようになった。

 「エルのミュートス」は、プラトンのミュートスのなかでも代表的なもので、プラトン中期の大作である『国家』の末尾を飾っている。

 『国家』はプラトンの代表作の一つであり、その分量も全10巻と、プラトン晩年の未完の著作『法律』(全12巻)に次ぐ長さである。

 『国家』は、ローマ時代のトラシュロスによって「正義について」という副題を与えられているように、国家論を通して正義論を展開している。

 そこには、正義をより大きな普遍的なものを考察することによって明らかにしようとする意図が見られる。つまり国家について考察するなら、それは個人の正義にも適用できるということが前提になっている。
 
 そしてこの議論のなかで、理想の国家とはどんな国家か、理想の国家を治めるのにふさわしい哲人統治者を育成するためにはどのような教育が行われるべきかという問いについての考察がなされる。

 「エルのミュートス」は『国家』第10巻614B-621Bに現れる。プラトンは、ソクラテスに正しい人および不正な人が現世において受ける報いについて語らせた後、さらに、正しい人、不正な人がそれぞれ死後に受ける報いを、戦争で命を落とし、あの世のことを見聞きした後で蘇生した兵士エルが語った物語を通して示そうとする。

 「エルのミュートス」ではまず、死者たちが裁きを受け、彼らのうち正しい者たちは天に上り、不正な者たちは地下に送られて罰を受けることが語られる。

 次に、宇宙の構造や、それがどのような仕組みで動いているのかが、女神アナンケの紡錘という神話的象徴によって説明される。またここでは天体の音楽についても言及される。

 それから、死者の魂たちが新たにこの世に生を受けるために行う、くじ引きによる生の選択について語られる。

 そして最後に、自ら生を選択した魂たちが再びこの世に生まれてくるまでの経過が語られる。

 ところで、正しい人、不正な人が死後に受ける報いを示そうというのが「エルのミュートス」の本来の目的であった。
 
 『国家』の注釈者アダムが、「エルのミュートス」を「現存する最も早い時期の黙示録である」とし、「『ゴルギアス』、『パイドン』、『パイドロス』のミュートスと一体となって死後の人間の魂を描き出し、まるで古代における『神曲』の様相を呈している」としたのもこのためだろう。

 確かに「エルのミュートス」では、死後、正しい人は天上で幸福な生活を送り、不正な人は地下で罰を受けると語られている。だが、不正な人が具体的にどのような罰を受けるのかについては、救いようのない悪人たちの場合を除いてとくに記述はない。

 また、正しい人が受ける報いについても、天から下ってきた魂たちが地下から上ってきた魂たちに対して、天界での幸福やその美しい光景を語っているという描写があるにすぎない。

 ダンテの『神曲』は、生前に罪を犯した者が地獄で過酷な罰を受けるさまや、反対に、正しい生涯を過ごした者が天国で永遠の至福にあずかるさまを克明に描いている。

 それに対し「エルのミュートス」はむしろ、地下や天において生前の報いを受けた後、再び集まってきた魂たちが新たにこの世に生を受けるまでの経過のほうをより詳細に描いている。

 だが、このような違いはあっても「エルのミュートス」と『神曲』は、死後の人間の運命を描く物語であるという点では共通している。アダムの言うように「エルのミュートス」は、確かに古代の『神曲』なのだろう。


 

 



 


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