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「石蹴り遊び」の時間論

時間について抱いていた従来の観念を、徹底的に打ち砕いてくれた作家が二人いる。
一人は20世紀を生きたラテンアメリカ作家のフリオ・コルタサル
もう一人は同じく20世紀のサイケデリクス・ルネサンスの騎手テレンス・マッケナだ。
今回はこの二人の展開した時間論を概説しつつ、前回の記事で紹介した「微分構造としての時間」の体感的感覚についての試論を展開したい。

コルタサルの著書「石蹴り遊び」は、驚くような仕掛けが施された本である。最初のページの「指定表」は以下のように指示する。

第一の書物
  ふつうに第1章から始まり、第56章で終わる
第二の書物
  第73章から始まり、以下の指定の順番に読む
  73-1-2-116-3-84-4-71-5-81-74-6-7-8-93-68-.....

「第一の書物」の内容は、エゴイスティックな青年の憂鬱な日常をどうしようもないディテールに渡って描いただけのリアリズム小説だ。読者は途中で投げ出したくなる願望に何度も駆られる。しかし「第二の書物」で作者は、ある特定の順番で「第一の書物」の内容を読み直すように指示する。

すると、代わり映えのせず退屈な日常風景に過ぎなかった前半の内容が、指定された順(あたかも「石蹴り遊び」をしているかのようにランダムな順番)に読まれることで、全く別の相貌を帯びて読者の前に迫ってくる。ここで読者は、魔法にかけられたような感覚を味わい、陶酔するのだ。

映画で言うと、オリジナルと、ディレクターズカット版の違いのようなものかもしれない。同じ事実の一群が、違った「配列」によって展開されることによって、全く違う意味を持つ経験として現出する。体験を意味あるものとして構成するこの「配列」が無数にあり得ると想像することは、的外れなことではないだろう。

コルタサルはこのようにして、直線でも円環でもない、「石蹴り遊び」としての時間構造を提示した。

同じような時間論を展開した人間が、同時代のアメリカに存在した。幻覚剤の研究で名高い植物学者のテレンス・マッケナだ。

マッケナはトリップ状態の中での「神聖なるキノコ」との対話を通して、時間についての真理を学んだという。以下に「キノコの言葉」を抜粋する。

「そしたら、これは知っていたかい、当然知っているはずだ!・・全ての日は、他の四日と関係を持つ。そしてそれは先行する四日ではない。それらは時間の中に散らばっている。一つは六ヶ月前かもしれない、一つは数千年前かもしれない。しかし、ある一日は、他の時間の、反響が合わさった干渉パターンなのだ。」

マッケナにキノコが語った言葉

ここで展開される時間論が、コルタサルの提示した「石蹴り遊び」の時間論に類似していることに驚かされる。私たちは通常、今日の自分に最も強い影響を及ぼしているのは昨日だと考える。小説を読んでいるときに、今読んでいるページは直前のページによって最も強い影響を受けると考えるのと同じような方法でだ。しかしマッケナに語りかけるキノコはその世界観を拒絶する。今日という日が最も強い関係を持つ四日間は、「時間の中に散らばっている」のだ。

脱線するが、FXのチャートについても同じことが言える。オーソドックスな時系列分析では、今日の価格に最も強い影響を及ぼすのは昨日の価格であり、一昨日の価格、その前の日の価格となるにつれて、今日に及ぼす影響力は減衰していく。しかしプロの相場師は、全く違うところを見ている。彼らは数百日前、数十ヶ月前のある地点に「水準」を見出し、その価格をベースに「トレンド・ライン」を引き、その複数のラインが及ぼし合う重力の影響を通して今日の価格の推移を予測する。その世界観の中では、今日の価格と最も強い相関を持つのは、実は数年前や数十年前のある時点の価格かもしれないのだ。

それはさておき、コルタサルとマッケナ、二人の時間論は共通している。それは例えるならば鍵盤のようなものだ。鍵盤は直線上に並んでいるが、スキップするように叩いても、連続的に叩いても、意味のあるメロディを奏でる。鍵盤の上で石蹴り遊びをしようが、真面目に一歩一歩進もうが、どちらも対等な時間経験を与えるのだ。鍵盤の叩き方には無限のバリエーションが存在するが、鍵盤は一個しかない。同様に、四次元宇宙の時間的経験の仕方には無限のバリエーションが存在するが、実在(カントの言う「物自体」)としての四次元宇宙は一個しか存在しないのかもしれない。


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